Content Subheads

● 土地所有制度とジョージ主義
● すべての土地は奪われたもの
● 空間という「実存的負債」
● 土地所有権という封建制度
● 地価税制度のメリット

「善良な地主なんてものはいない」。怒れる借地人たちはそう雄叫びをあげる。将来、「土地の所有は倫理に反する」というのが当たり前の道徳規範になるかもしれない。

いまでは、クルマや家と同様に土地の所有はごくふつうのこととされている。それももっともな話だ──危険な武器や古代遺跡の発掘物など、わずかの例外を除き、個人が何を所有しようと自由だと一般的にみなされているからだ。特に、領土支配の考え方は古くからある。言ってみれば動物も軍司令部も政府も領土を支配しているのだし、現代の「不動産完全所有権」、すなわち制限のない永続的かつ私的な土地所有権の概念は13世紀から英国コモンローに盛り込まれている。

しかしながら、1797年に米国建国の父であるトマス・ペインは、「未開墾地」はこれからも常に「人類の共有財産」であり、したがって土地所有者はそうでない者に「本来、彼/彼女が受け継ぐべき財産の損失」を補償する義務がある、と主張していた。

ジェハン・アザド 

「Atoms vs. Bits」でブログを執筆しながら、「Wikiciv.org」というWikiを運営して文明社会に警鐘を鳴らす。BuntyLLCとMarathon Fusionのエンジニアでもある。

土地所有制度とジョージ主義

それから1世紀のち、経済学者ヘンリー・ジョージは、富は増大しても貧困は増え続けているが、それは土地所有制度のせいだと非難した。ジョージは、土地には最高で「更地」──詳細は後述する──価格の100%まで課税し、ほかの税(当然ながら財産税のほか、もしかすると所得税も含まれる)を減らすかまたは廃止すべきだと提唱し、世間をあっと言わせた。

ウーリー・ブラム 

ニュースレター「The Browser」発行人で『The Business of Big Data』(未邦訳)共著者。ゲーム「Person Do Thing」のクリエイターでもある。

彼の著書『進歩と貧困』は200万部を売り上げ、出馬した1886年のニューヨーク市長選挙では31%の票を獲得した(31歳のテディ・ルーズベルトの得票数をわずかに上回ったが、最終的には2位に終わった)。

ジョージは急進主義者ではなく改革者だった。土地所有制度の廃止には共産主義への宗旨替えも狩猟採集社会への回帰も必要ない。なぜなら、土地というものは、作物栽培であろうと高層ビル建設であろうと、人間がその上ですることと切り離すことができるからだ。

平たく言えば、「土地所有者」はたいていの場合、土地をもっているだけでなく、そこに建物を建て、維持管理し、人に生活する場所を提供したりもする。土地を活用すれば金銭的価値が生まれるが、住居費用の大半を占める土地の価格に比べればその額はかなり小さい。ニューヨーク市では一般的な住宅価格における土地価格の比率は46%。サンフランシスコでは52%、ロサンジェルスでは61%である。

「利用されていない」土地(更地)の価格にはほかのものとは別に税金を課すことができる、というのがジョージ主義に基づく主要な見解だ。いまあなたが仮にどこかの土地を(家を建てるなどして)利用するとしたら、保有する財産の価値が上昇するので税金は増えるだろう。ジョージ主義の下では、住宅を建てても支払う税は更地と同じ額になる。建物があっても空き地のままでもその土地の面積は同じだからである。

今日、政治運動としてのジョージ主義は空き地のように活気を失っている。しかし、人々がジョージ主義に基づく課税制度が経済効率に優れているばかりか、倫理的にも正しいと考える日がいつか来ると、わたしたちは信じている。

すべての土地は奪われたもの

生きる権利は人間が生まれながらにもっている第一の権利と考えられている。しかし、生きるためには物理的な空間──身体が収まる数十リットル以上の容積──がなければならない。そんな基本的な必須要件すら満たされないなら、誰が何の権利をもつと宣言したところで意味がない。

例えば、誰もが公正な裁判を受ける権利があるとされる社会では、弁護士がいなければ本当の意味で公正な裁判を受けることはできないのだから、金銭的余裕がない人には社会によって弁護士が用意される。

同じように、少なくとも地球上では、空間を占有するとはとりもなおさず土地を占有することを意味する。アパートだって地下貯蔵庫だって、その上なり下なりの土地がなければ建てられない。よって、生きる権利とは実のところ物理的空間に対する権利が派生したものであり、空間の権利は土地の権利の派生物なのである。

土地の権利に伴う問題は、それがすべて奪われたものであるという点だ。わたしたちが生まれるはるか昔、米国の居住可能な土地はどこもかしこもほかの誰かがその所有権を主張している土地だった。歴史的に見て、土地所有権の倫理的価値観をかたちづくったのは、「土地ならどこかにもっとある」という認識だろう。

1800年代に新聞社を設立したホレス・グリーリーが語った(とされる)言葉がよく知られている。「ワシントン[DC]は人の住む所ではない。家賃は高いし食べものはまずい。ほこりだらけで気分が悪いし、人々は善悪の判断もできない」。では、どうすれば?「西部に行け、若者よ。西部に行って国とともに成長するのだ」。話の途中までは同意する人もいるだろうが、現代では西部に向かっても160エーカー(約64万平方メートル)の土地の権利を主張するのは不可能だ。

言うまでもないが、いまになってみればグリーリーのことばには道義的な怒りすら覚えずにはいられない。当時入植者が移住した土地は、そもそも所有者のいない土地ではなかった。先住民が何世代にもわたって暮らし、管理してきた土地なのだ。そのことからひとつの重要な真実が浮かび上がってくる──現在土地を所有するほぼすべての人は、力尽くでその土地を奪い取った者の子孫、相続人、あるいは取引先である。しかも、土地は無限にあるわけではなく、マーク・トウェインが言った(もしかするとちがうかもしれないが)ように「これ以上土地は増やせない」のだ。

空間という「実存的負債」

一部の人間だけが土地を使って儲けを得るのが道義に反すると考えられるのは、土地は生きるために誰にとっても必要なものなのに、利用可能な土地がもうないという事実があるからだ。土地を貸すのは、それが人類の共有財産である以上、本来その権利をもっているはずの人から地代を巻き上げるのと同じことになる。

あなたが蛇口をひねれば飲用水が出てくる場所に住んでいて、捨てるほど金のある誰かがその水道水をしゃれたボトルに詰めて売ったとしても、それはかろうじて許されるかもしれない。だがもし砂漠で天然のオアシスを見つけて、その周りに柵を張り巡らせて独り占めし、地元の人たちに水を売り、払えるだけのお金を払えと要求するとなれば、ひどくたちが悪い。

所有する土地をほかの人に貸すのもそれと同じだ。土地を貸すのはまだ選挙権のない人にまで課される人頭税のようなものだ。それは、みんなに与えられるべき当然の権利をもつ者ともたざる者を選別し、平等なはずの権利を金まみれの特権にする行為なのだ。

今日すべての人は一種の実存的負債を負って生まれている。この世に現われた瞬間から、あなたはほかの人が所有する空間に存在し、それ以降ずっと生きるために必要な空間を手に入れるため日々お金を費やしている。土地の所有権とその売却や賃借の制度では、誰のものでもないリソースを管理することで一部の人間だけがお金を稼げるようになっているのだ。

経済学者はこれを「レント・シーキング」[編註:制度や規制などによって、自分の労力以上の利益を得ようとする行為。ひいては自らの利益のために企業などが政府や官庁などに働きかけ、自分たちに都合のいいように法律や政策、税制などを変更させようとすること]と呼び、わたしたちの多くは「社会倫理にもとる」と考える。

過去数世紀において倫理観は大きく進歩し、人々はそれまで合法的に所有できるとされてきたもの──もっとも恐ろしいのは、動産所有物と定義された奴隷や夫の所有物として扱われた妻、さらには絶滅の危機に瀕した動物、文化的遺物、人間の臓器──に対する正当性を疑うようになった。土地は暴力によって占領され、柵で覆われ、支配できるものであり、そうすることは正しいと信じられてきた長い歴史を知れば、わたしたちの子孫もまた道徳的恐怖を感じるだろう。

土地所有権という封建制度

現在の土地所有権制度を未来の人たちがどうとらえるかを知りたければ、いまのわたしたちに封建制度がどんなものに映るかを考えてみよう。

封建領主は自分で土地を切り開いたわけではない。彼/彼女らの領地は有力な権力者から譲渡されたものだ。そして権力者もその土地をほかの人から手に入れ、やがて誰かにそれを暴力で奪われた。

一方、農奴は生まれたときから土地に「縛りつけ」られ、彼/彼女らが所有する権利があるはずの空間の地代を領主に永久に払い続けなければならなかった。例えば異なるふたりの、あるいは10人、いや100人の領主のうち誰を選ぶかの選択肢を農奴に与えたとしても、根本的な事実は何も変わりはしないだろう。実存的負債をもって生まれてくるなんて、まちがっているとしか言いようがない。

事前に承諾を得るという点で、現代の土地所有制度はある意味封建時代のそれよりも悪質である。封建時代は土地以外に保有できた資産と言えば人間だった。そんなおぞましい時代に、価値が上昇する唯一の入手可能な資産は土地だった。封建領主は制度に従うか一家の農奴を手放すかの選択を迫られたのかもしれない。

だが現代の経済においては、土地に投資する者は、大きな利益を生み出し他者の権利を侵害しない投資手段はほかにいくらでもあるのに、あえてそれを選んでいるのだ。それに、「不動産完全所有権」は比較的新しく、偶発的に生まれた、考えうる多くのモデルのひとつにすぎない。

事実、世界には土地の価値を社会の共有財産とみなして成功している国がいくつもある。例として、シンガポールでは土地の4分の3は土地管理局が買い上げた公有地であり、国民は一定期間(通常99年間。期限は延長される)これを借り受ける。

現在の土地の評価方法にこそジョージ主義を取り入れるべきだ。土地の更地価格を算出し、その土地を利用して得られる年間の地代とほぼ同額の税を課せばいい。地価税と呼ばれるこの税は、すべての人の共有財産である土地を「貸している」地主が払う。

地価税制度のメリット

『ウォール・ストリート・ジャーナル』によると、テキサス州オースティンにある空き地1エーカー(約4,000平方メートル)当たりに課される税は同地域に建つアパートの約半分であるという。だが地価税制度では、空き地であろうとその上に建物を建てようと同じ面積の土地を利用している点は変わらないことから、どちらの場合も同額の税金を支払わなければならない。

この制度のメリットは、土地の利用が促されることだ。税の負担が変わらない以上、空き地にしておくよりも土地を有効に活用したほうが地主の収入が増えるからである。それに対し、投機目的の土地所有の場合、地価税は不利に働くため、結果として人々が自由に使える土地が増える。地価税の導入により、ペンシルヴェニア州ハリスバーグの空きビルは約90%減ったとされている。

このような選択肢や、今後首尾よく機能すると考えられる制度の根底には、次のような考え方がある──人々が確実に土地を利用できるようにし、さらには土地を整備して利益を得られるようにしなければならない反面、本来誰かひとりのものではない、共有リソースであるはずの土地を保有しているだけで懐を肥やす人がいてはならない。

驚くべきは、トマス・ペインが1797年にすでにそのように主張していたことだ。「人間は地球をつくったわけではない(中略)。個人の財産と言えるものは土地そのものではなく、そこに加えられた改良がもたらす価値だけである。それゆえに耕作地のすべての所有者は、所有する土地の地代を共同体に支払う義務を負っている」

WIRED/Translation by Takako Ando, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)