Content Subheads

● 炭素循環におけるクジラの役割
● ある種の資本主義的錬金術
草はみにくいアヒルの子
●「ブルーカーボンのブループリント」
● バハマの海草草原
● 資金の使途
●「自然を投資可能にした」
● 炭素市場の根本的な不公平さ
● 最終的に等式は成り立つか?

いま、あなたはクリスティーズのオークション会場にいる。これまでずっと、スーツを着た人々が想像を絶するほど貴重な物品に値を付けるのを眺めてきた。オランダの巨匠による油絵や中国・明時代に由来する花瓶などが、金融業者、海運王、石油ファンドなどの手に渡った。あなたも何度か入札を試みたが、いずれもうまくいかず、市場のいかがわしさに嫌気がしてきたところだ。今日は早々に切り上げて、会場を去ることにしようか。ところが、そのとき紹介されたアイテムを見て、あなたは身を乗り出した。ロット番号475「シロナガスクジラ、成体、メス」

この傑作生物には、いったいどんな値段が妥当なのだろうか? 明時代の花瓶とは違って、ロット番号475にはこれまで一度も値が付けられたことがない。少なくとも、シロナガスクジラの体重に相当する30万ポンド(約135トン)分の肉、骨、髭、脂肪の値段の合計以上の価値があることは間違いない。だが、なぜそうなのか?

クジラには生物学的価値がある。それは確かだ。大きな魚がいなければ小さな魚も存続できない。しかし、そうした価値を数字に変換する方法がわからない。同じことが文化的な意味での価値にも言える。シロナガスクジラが人々に引き起こす畏怖と敬愛の念は計り知れない。いや、ロット番号475はそもそもプライスレス。値段を付けようとするのは無駄なこととも考えられる。スーツ姿の連中はどんな応酬を繰り広げるだろうか。あなたは入札合戦の開始に身構えた。しかし、番号札はいっこうに上がらない。

グレゴリー・バーバー

『WIRED』のスタッフライター。エネルギーと環境を担当。コロンビア大学でコンピューターサイエンスと英文学の学士号を取得。サンフランシスコ在住。

炭素循環におけるクジラの役割

ラルフ・チャミが前もってロット番号475への入札開始価格を提案している。チャミはおよそ6年前に、カリフォルニア湾を走る調査船で宗教的と呼べる体験をしたことが、価格査定を行なったきっかけだった。ある朝、シロナガスクジラが調査船のすぐ近くにまで浮上してきた。クジラの湿った息がチャミにも直接感じられるほどに。「何と言うか、『きみはいままでずっとどこにいたの?』と言われたような感覚でした」とチャミは回想する。「『わたしはいままでどこにいたのだろう?』」

当時、チャミは50歳で、それまで10年近くをIMF(国際通貨基金)で働き、リビアやスーダンのような脆弱な市場の安定化に取り組んでいたが、その仕事をしばらく休むことにしたのだった。「自分自身が弱くなったような気がして」とチャミは言う。シロナガスクジラに遭遇したとき、チャミは知性を感じた。そしてこう考えた。「彼女には人生がある。家族がある。歴史がある」。その瞬間あふれ出した涙を、チャミはほかの乗員から隠した。

その晩、チャミは調査船乗組員たちから海は不幸だという話を聞いた。海はなおざりにされている、と彼らは言った。国境と国境のあいだに封じ込まれ、法や秩序が及ばず、そのため海の豊かさはめまぐるしいほどのペースで損なわれつつある。水温は上がり、酸化が止まらない。漁場の3分の1以上で乱獲が行なわれ、サンゴ礁の4分の3はまさにいま崩壊しようとしている。クジラは人々から愛されているので、漁を禁止する法や、繁殖地を保護する規則が制定される可能性もあるが、その一方で、人間はクジラを脅かす物事も大好きだ。例えば、海上の石油プラットフォームはクジラの生息域を汚染するし、貨物船はソナー信号を発してクジラの会話を妨害し、クジラと衝突する。

チャミはレバノンで水に親しんで育った。父親から「夢ばかりみるな」と言われるまでは、海洋学者になろうと考えていたほどだ。調査員たちの話を聞いたとき、チャミのなかで何かが目覚めた。傷ついた経済を修復するために使うのと同じ手段を用いることで、海も治療できるのでは、と思えた。海も危険地域と言えないだろうか?

調査船乗組員たちから送ってもらった学術論文から、チャミは炭素循環におけるクジラの役割について学んだ。チャミの計算では、シロナガスクジラはその立派な体内に33トンもの炭素を蓄え込むだけでなく、鉄分に富む糞をすることで海を肥やす。そのおかげで炭素を分解する植物プランクトンが繁殖できる。

チャミは興味をそそられた。世界経済が環境に優しくなろうと躍起になっている昨今、温室効果ガスを相殺する手段が貴重であることは明らかだ。炭素の相殺量は、大気から除去される炭素の量をトン単位で示す「カーボンクレジット」として測定できる。クジラ自体は売買できないし、すべきでもないが、クジラの生態学的役割によって生じる利点はカーボンクレジットとして売買が可能だ。この点、クジラは古い絵画よりも原生林に近い存在だと言える。

では、炭素に換算するとクジラの価値はどれぐらいになるのだろうか? そのような計算をした人は、まだ存在しないようだ。そこでチャミは愛用の保険数理ソフトウェアを開いて、何度も計算を繰り返した。そして最後には、クジラは呼吸する度に、子を産む度に、価値を生み出すと結論するに至った。そして、クジラが60年の生涯で隔離する排出炭素の量を基準に、人間にとってのクジラの価値を200万ドル(約3億円)と見積もった。これが入札開始価格だ。

ある種の資本主義的錬金術

チャミに言わせれば、この数字は燃え尽きた経済学者が頭の中で適当に考えただけの数字ではない。これにより、ある種の資本主義的錬金術が可能になるはずだ。クジラの働きに価格を付けることで、クジラという存在を債務──言い換えれば、罪悪感に苦しむ少数の慈善家たちがいそしむ慈善活動の対象──から資産に変えることができるとチャミは確信した。

クジラがカーボンクレジットとして集めた資金は環境保護団体、あるいはクジラが住む水域を所有する国家の政府の手に渡る。その資金を使えば、政府や団体はクジラとその子孫を保護し、二酸化炭素を隔離する努力を続けられる。航路や深海採掘などといったクジラの生息環境に対する新たな脅威はどれも、クジラの経済的生産性に対する障害とみなすことができる。これまでクジラのことに関心がなかった人々でさえ、クジラの健康に責任を負うことになる。

金融業界に入る前、ラルフ・チャミは海洋学者になることを検討していた。ILLUSTRATION: ISRAEL G. VARGAS. RALPH CHAMI

これは「ウィン・ウィン・ウィン」の関係だと、チャミは考える。二酸化炭素を排出する者は、地球環境の崩壊を回避するための義務を果たすことができる。環境保護団体は喉から手が出るほど欲しかった資金が手に入る。そしてクジラは市場の見えざる手に守られて、幸せに海を泳ぎ続けられる。

それだけではない。どの野生動物も炭素循環に関係しているため、価格を付けることで保護できるはずだと、チャミは悟った。例えばアフリカゾウは土壌を肥やし、下草を食べるので、木々の生長を促す。チャミはアフリカゾウの働きの価値を175万ドル(約2億5,500万円)と見積もった。観光の目玉として、あるいは象牙の密猟で得られる価値よりもはるかに高い額だ。「同じことがサイにも、サルにも言えます」とチャミは説明する。「もしそれらがわたしたち人間に『ねえ、ぼくらの働きに対価を払ってよ』と言ってきたらどうでしょう?」

チャミの数字は、良くも悪くもリアクションを引き起こした。さまざまなメディアの取材を受け、世界中の動植物の価値を尋ねられた。チャミはTEDで講演もした。値段を付けることで自然をおとしめている、自然を安売りしている、という批判も受けた。海洋哺乳類の専門家たちは、クジラによる炭素隔離の仕組みについてはまだわかっていない部分が多いと指摘した。しかしチャミの目には、反論者たちはシロナガスクジラには値札を付けられないと主張し続けることで、シロナガスクジラは無価値であると言いたいかのように映った。

2020年、チャミは招待を受け、自然を利用した気候変動対策を考えるタスクフォースに参加した。チームには、サウジアラビアのキング・アブドゥッラー科学技術大学に所属するスペイン人海洋生物学者のカルロス・ドゥアルテも含まれていた。環境保護活動家のあいだでは、ドゥアルテは「ブルーカーボン」の父として名が通っている。ブルーカーボンとは、人間の排出する炭素の除去における海洋の役割をおもに研究する気候科学分野のことだ。

09年、ドゥアルテは国連レポートの共同執筆者として、ふたつの重要な発見を公表した。ひとつは、人が排出した炭素の大部分は海中に吸収されること。もうひとつは、海底のごくわずかな領域──海底の0.5%に相当する広さで、そこに地球上のマングローブ林、塩水湿地、海草草原の大半が含まれる──に、海底堆積物に含まれている炭素総量の半分以上が貯蔵されていること。

タスクフォースの会合のあと、ふたりは直接話した。ドゥアルテはチャミに、科学者たちが最近、ドゥアルテ自身の計算では全世界の海草の40%にも相当する量がひとつの地点、具体的にはバハマ諸島沖に集中していることを突き止めたと話した。海草こそ隔離発電所だと、ドゥアルテは説明する。そして海草は全世界で脅かされている、とも。海草の生息域は、海洋熱波、汚染、開発の影響で、毎年平均して1.5%ずつ縮小している。

この点に、チャミは興味をそそられた。そこで全世界の海草によって隔離される炭素の総量をざっくりと試算したところ、すごいことがわかった。ほかの数字を圧倒的に上回っていたのだ。チャミの計算によると、海草の価値は1兆ドル(145兆6,000億円)だった。

海草はみにくいアヒルの子

海草はこれまでずっと忘れられた存在だった。南極を除くすべての大陸の沖合に毛の長い絨毯のように広がっているが、基本的に目立たない存在で、錨にからまったり、スクリューを故障させたり、リゾートビーチの景観を損ねたりしない限り、人間の関心を引くことはまずない。ダイバーが海草草原を訪れるのも、波に揺れる緑の葉を楽しむためではなく、ウミガメやサメなどといったもっと魅力のある生物と戯れるためだ。どこかの湾や入り江で10年ほどの時間をかけて海草が消えてなくなったとしても、気づく人はほとんどいないだろう。

ILLUSTRATION: ISRAEL G. VARGAS. DREW MCDOUGALL, WILSON HAYNES, BENEATH THE WAVES, GETTY IMAGES, ALAMY

ドゥアルテが海草の研究を始めた1980年代は、海草草原で何が起こっているかについて「NGOですら関心がなかった」そうだ。しかし、ドゥアルテは人とは違った視点から海草に関心を向け、大学院時代から浅瀬や沼地を歩き回ったり、マヨルカ島沖の海中草原に潜ったりした。そして、海草のことを知れば知るほど、気候変動に抵抗する闘いにおける海草の価値を理解するようになった。

海草は花を咲かせる植物として唯一、一生を水中で過ごす。その繁殖は、種子(余談だがとても美味)を運ぶ海流とほかの動物に依存している。海藻とは違って、海草は海底の土中に根を伸ばし、水平に根茎を張り巡らす。そうやって、巨大な生命ネットワークを形成する。地中海にある海草の一区画は20万年にわたって絶えず繁殖を繰り返してきたことが知られ、世界最古の生物とみなされている。ウエスタンオーストラリア州沖に育つ別の海草は、生息する世界最大の植物だ。

地中数インチの深さで広がる根茎の巨大ネットワークが、海草の生存の鍵になる。また、根茎のネットワークがあるおかげで、海草は炭素を迅速に──ドゥアルテの計算では、成熟した熱帯雨林の10倍の速さで──除去できる。それなのに、誰も海草に関心を向けようとはしなかった。「わたしは海草のことを、環境保護におけるみにくいアヒルの子と呼びました」とドゥアルテは言う。

2020年のある日、ドゥアルテは「Beneath the Waves(波の下)」という名の米国NGOの会長であるオースティン・ギャラガーと出会った。ギャラガーはサメ好きで、彼にとって海草はあくまで脇役に過ぎなかった。しかし、ボランティアと科学者で構成される研究チームが衛星タグとGoProカメラでイタチザメを調査したところ、バハマ諸島周辺に生息するイタチザメの広大な単独回遊軌道にひとつの特徴が存在することがわかった。イタチザメはエサとなるウミガメがいる場所を、一方のウミガメは海草の草原がある場所を目指して移動していたのだ。チームが見つめるカメラ映像には、大量の海草が映っていた。

こちらも海洋学者である妻の勧めで、ギャラガーはドゥアルテが書いた海草に関する論文を読んだ。ふたりは協力して、サメに360度カメラを取り付けて、バハマ沖海草マップを作成する計画を立てた。草原の範囲を確認したら、チャミの協力のもとで炭素の量を試算し、バハマ政府に協力してカーボンクレジットの販売に取り組む。この計画は世界初の試みとなるだろう。いくつかの団体は、傷んだ海草草原を修復すること(費用がかかり、不確実で、規模的にも制限される厄介なプロセス)でカーボンクレジットを得ようとしていたが、現存する生態系を保全することでクレジットを得ようとする試みは前代未聞だ。その規模は、ほかのあらゆる海洋関連の脱炭素努力を圧倒的に上回る。

政府は熱心に耳を傾けた。ほかの小さな島国と同じで、バハマも海面上昇と自然災害の凶悪化に脅かされている。どちらも、おもに産業化が進んだ大国が吐き出してきた炭素によって引き起こされた問題だ。19年、島を襲ったハリケーン・ドリアンが30億ドル(約4,400億円)を超える被害をもたらし、少なくとも74人の命を奪った。いまなお、200を超える人々が行方不明だ。同国政府にとって、世界の炭素排出者がその巨大な富の一部を地域経済に還元するというのは当然のことだと思える。「わたしたちが空気中のゴミを集めてきたのです」フィリップ・デイヴィス首相が去年、サミットの聴衆に語りかけた。「それなのに、これまでまだその報酬を得ていません」

政府は22年春にカーボンクレジット市場を立ち上げ、バハマをブルーカーボンの取引拠点にすることを目指すために法を整備した。今後は、Beneath the Wavesと地元の金融業者が共同設立したカーボン・マネジメント・リミテッド社が、炭素の研究から収益化までのすべてを取り仕切ることになる(バハマ政府も共同出資しているこのパートナーシップは、収益の15%を徴収する)。当初、バハマで暗号通貨取引がブームになっていたこともあり、暗号通貨取引所のFTXにカーボンクレジットを取引するサービスを立ち上げさせる計画も立てられたが、FTXが破綻し、そのCEOが訴訟のために米国に引き渡されたことで、方針を変えざるをえなくなった。

彼らはバハマの海草は毎年1,400万から1,800万トンの炭素に相当するクレジットを生み、それが5億ドルあるいは10億ドル以上の収益をもたらすと予想している。30年にわたり、草原は数百億ドルをもたらすだろう。海草はみにくいアヒルの子どころか、金の卵を産むガチョウだったのだ。

「ブルーカーボンのブループリント」

ドゥアルテはバハマでのプロジェクトを(言葉遊びも込めて)「ブルーカーボンのブループリント(青写真)」とみなしていて、過去20年にわたる自身の活動の土台となった「すべての水生生物とその生息地を産業革命以前の状態に修復する」という大きな理想の実現のための青写真になると捉えている。彼は「ブルー・ナチュラル・キャピタル(青い自然資本)」という言葉を用いながら、国家の経済的生産性の計算に自然の価値が織り込まれる未来を想像する。

これは過去にあったような、自然を経済化しようとする試みとは一線を画している、そうドゥアルテは強調する。19世紀以降、環境保護団体は、バイソンやライオン、あるいは森林を保護することは、健全な投資だと主張してきた。動物が絶滅し森林が伐採されれば、もはや嗜好品も木材も得られないからだ。より最近では生態学者が、湿地などといった人間の好まない土地はショッピングモールなどにするよりも洪水の緩衝地や水の浄化に利用するほうが役に立つことを実証しようと努めている。

しかし、そうした取り組みは狩人や環境保護活動家には魅力的ではあっても、ケンブリッジ大学の経済学者が英国政府の委託によって2021年に発表したレポートで自然資本について論じたような、自然を「世界的な資産ポートフォリオ」と定義し直す動きからはほど遠い。

海草は「環境保護におけるみにくいアヒルの子」だとカルロス・ドゥアルテは言う。彼の計算では、海草は成熟した熱帯雨林の10倍の炭素を吸収する。ILLUSTRATION: ISRAEL G. VARGAS. RALPH CHAMI

ドゥアルテとわたしは、エジプトのシャルム・エル・シェイクで開催された2022年国連気候会議の混雑した展示会場で出会った。ドゥアルテはサウジアラビアのジッダにある自宅から来ていた。そこを拠点に、サウジアラビア紅海沿岸のサンゴ礁の修復、再生観光プロジェクト、あるいは全世界における海藻養殖地の拡大にいたるまで、(カーボンクレジットで得た収入を用いて)さまざまなプロジェクトを顧問・監督している。エジプトでは、22のパネルに登壇する予定になっていた。彼こそが、エジプトの「循環炭素経済」計画──炭素を、部分的には自然の力を借りながら、コモディティとして責任をもって取り扱う試み──の科学面の代表者だった。

チャミも会場にいた。すらっとしたスーツ姿で、首にはクジラの尾をあしらったペンダントをぶら下げている。バハマ代表団のメンバーとして、デイヴィス首相やBeneath the Wavesの環境保護活動家とともに会議に参加していた。バハマ代表団は生物多様性を気候変動に関する世界的な議論の論点として位置づけるための秘策をもってやって来た。海草だ。海草は世界のどこでも複製できる。その際、バハマが自然市場のハブになれれば理想的だ。

国連会議は海草の利点を宣伝するのにもってこいの場所だった。同会議の主題は、ハリケーン・ドリアンなどの災害に見舞われた貧しい国々に対して、それらの元凶をつくった裕福な汚染国家にどう賠償させるか。国連協定の締結が目指されてはいたが、その一方では、資金繰りに関するほかのアプローチについての議論も続いていた。

2015年のパリ協定以来、どの国家もバランスシートに炭素排出量を含める義務を負っている。排出量の多い国は、資金に乏しく生物多様性に富む国家と手を結び、気候目標の達成を実現する目的で自然に投資している。IMFのチャミの上司は、債務を抱える国は自国の自然資本を炭素に換算して負債の返済にあてがうことを検討してもいいかもしれないと示唆していた。「現在の貧しい国々は、実際にはとても、とても裕福であることにいずれ気づくでしょう」とチャミはわたしに語った。

そのチャミの言葉を借りると、会議の主題が暗礁に乗り上げたように見えるなか、バハマのプロジェクトこそが希望の物語となった。海草に関する講演を行なったとき、チャミは宗教の伝道者さながらの熱意をもって語った。気候を修復するために人類に残された時間を考えると、「かわいらしいプロジェクト」ではもはやどうしようもない。ここに海草を植えるのに数百ドル、あそこのマングローブ林を守るのに少しばかりのカーボンクレジット──それではだめで、いま求められているのはその1,000倍の規模で考えることだ、と主張したうえで、チャミは、エジプトに集まっている人々に何を待っているのかと問いかけた。「わたしたちは、何をグズグズしているのでしょうか? いつまでも話しているばかりで、ほとんど何もやっていないではありませんか」

バハマの海草草原

この冬のある日、かつてテネシー州チャタヌーガで不動産開発に携わっていたデイヴィッド・ハリスという人物が個人所有のジェット機でリトルバハマバンク(小バハマ堆)の上空を飛行した。コックピットの窓からは、憂鬱な画家のパレットのような海面が見えた。ハリスはグランドバハマ島のウェストエンドにある雑草の生えた滑走路へ向かっていた。そこから「ティグレス」という漁船に乗り込む。ハリスとクルー(そこにはハリスの10歳の娘も含まれていた)は週の残りを、Beneath the Wavesに協力して海草草原の調査に費やす予定だった。

彼らは広大な領域を調査対象にしていた。バハマの陸地は合計してもわずか4,000平方マイル(約1万平方キロメートル)に過ぎないが、島々を囲むバンク(浅瀬)はそのおよそ10倍の面積を誇る。こうしたバンクはサンゴの働きでできたもので、まるでローマ帝国のように、サンゴがほかのサンゴの上に積み重なり、そびえ立つ炭酸塩文明を築いた。最初の海草がやって来たのは、およそ3,000万年前。そこは海草にとって完璧な場所だった。海草にとっては、光が差し込む浅瀬が最適な環境なのだ。

少し鼻声で温かな話し方で、まるで少年野球のコーチのような包容力をもつハリスは、ダイビングや釣りの機会を求めて、そしてときには不動産取引のために、これまで何年もバハマを訪れてきた。あるとき、釣り旅行の際にギャラガーに出会い、すぐに彼のイタチザメの調査活動を手伝うようになった。この活動は(気が荒いことで知られるイタチザメのすぐ近くでダイビングをすることもある)学術調査と、テレビ番組『シャーク・ウィーク』のクルーと同番組の有名人ゲストのもてなし役というふたつの側面のエキサイティングな組み合わせだった。最後には、ハリスは会社を売り払い、不動産業を引退し、ボランティア活動に専念することに決めた。

ハリスは、自分が海草を眺める日々を送ることになるとは、決して予想していなかった。しかし、実際に彼はバハマにいて、ブルーカーボン調査を率いていた。ドゥアルテの協力を得て、Beneath the Wavesはサメの行動を加味した海草マップを作成した。スウェーデンの企業に依頼し、小型飛行機にLiDARカメラを取り付けて領域をスキャンし、水中をのぞき込み、機械学習を用いてその結果から草原の密度を推測した。

そして今回、ハリスとクルーは空撮データの検証に取り組む。これは何十時間も海底を撮影し、数百箇所の堆積物コアを採集するという気が遠くなるような作業だ。撮影の目的は、LiDARを用いた予測が海草とただの砂地と海藻を正しく区別できているかを検証することにある。採取した堆積物コアはギャラガーの母校、ボストン郊外にあるプレパラトリー・スクールのラボへ送り、有機炭素の含有量を検査する。すべてのデータを組み合わせれば、海草草原にどれほどの炭素が含まれているか、ついに明らかになる。

自動操縦で直進するよう設定されたティグレスは、右舷側でGoProカメラを引っ張っていた。この点では、作業の規模は容易に俯瞰できた。5ノットというゆったりとした速度で、各ラインを1時間ほどかけて走破する。今回の対象海域──Beneath the Wavesがバンクの調査を行なう予定の30地点のひとつ──にはおよそ20ラインの移動が必要になるだろう。ハリスの娘がヒトデを数え、日誌にスケッチしている。学校を休んでいるのは調査に同行するためであることを証明するためだ。父親のほうはバンクを観察しながらサメを探している。各ラインの終わりにクルーが海藻の束が引っかかったカメラを回収し、メモリーカードを交換する。

最終的には、ハリスのクルーが海草の炭素貯蔵能を評価するプロトコルを作成し、非営利炭素登録機関であるVerraに提出することになっている。Verraはカーボンクレジットを売る前に、そこに本当に売るだけの価値があるのかを確認する標準方法を開発している。同機関の要件を満たすために、Beneath the Wavesは次の2点を証明しなければならない。海草が本当に推定された割合で炭素を吸収すること、そして、海草草原を保護すればより多くの炭素が吸収されること。人が保護しなくても自力で十分に機能する炭素吸収源を守るために出資する者などいない、という考え方だ。10億ドル規模のチャンスを得るには、それに見合った脅威が必要なのだ。

資金の使途

ハリスがわたしに話したところによると、脅威の程度の見極めという点では、Beneath the Wavesはまだ「調査段階」にあるそうだ。海岸近くでの採掘、違法なトロール漁、錨泊、水質問題など、脅威の候補はいくつかある。

だが、炭素の計算に関する限り、ハリスらは自分たちのやり方が正しいと確信している。ティグレス乗船に先立って、Beneath the Wavesは自らのツールやメソッドをほかのブルーカーボン計画に応用するための営利会社を設立した。同社はカリブ海地方、ヨーロッパ、あるいはアフリカの各国政府機関と会合を行なった(ギャラガーによると、同社は得た利益を非営利のBeneath the Wavesの環境保護および調査活動の維持にあてる計画だそうだ)。

一方、本プロジェクトの科学面および財政面を担っているカーボン・マネジメント社の社長はわたしに、同社は主に気候変動対策に取り組みながらポートフォリオを多様化したいと考えている「富裕個人」にクライアントへの投資を勧めていると語った。加えて、石油会社やコモディティ取引業者も、さらにはバハマと関係の深いクルーズ船会社やホテル事業主も投資への関心を示しているそうだ。

バハマ政府はこれまでのところまだ、海草プロジェクトで得る資金の使い道を説明していない。ハリケーンからの回復あるいは次のハリケーンに対する備えはそのリストに入るだろうが、海草の保全もリストに含まれる可能性がある。

ティグレスの乗組員は辺りが暗くなるまで作業を続け、港に戻った。ハリスは海上で自分の役割が果たせてうれしいと言った。この計画で得られる資金は、今後より大型の嵐に襲われることになると予想されるバハマにとって恵みとなると、ハリスは考えている。ハリケーン・ドリアンがグランドバハマ島を風速185mph(時速約300km)の風で襲い、バンクの海水を陸地にまき散らした数日後、ハリスは島に飛び、子どもとともに木にしがみついて命からがら生き延びた友人を支援した。

当時の嵐の名残が、大小さまざまなかたちでいまも散在している。ティグレスの停泊地の近くにあるレストランには、パンがなかった。オーブンが水浸しになったので「ドリアン以来パンはありませんよ」と、ウェイトレスがわたしに微笑んだ。そしてすぐに笑うのをやめた。回復には時間がかかった。若者や観光客は戻ってこなかった。空港は修復されていない。彼女は、税金はどこに使われているのかと不思議がった。

その夜、オーブンを失ったレストランで夕食をとりながら、ハリスがわたしに、自分が所有するビンテージ車「シボレー・ブレイザー」の写真を見せてくれた。そして、海草プロジェクトがこの燃費の悪いクルマの排出量を相殺するのに十分なカーボンクレジットを生み出すことを望んでいると話した。もちろん冗談なのだが、そこにはより深い願いが込められている。

カーボンクレジットは、物事が理想的なかたちで運べば、人類が大気に吐き出し続ける排出量を静かに相殺すると約束する。エンジンのピストンの上下、ジェットエンジンの回転、牛の飼育、石油化学工場など、人間に手放すことができない、手放すつもりのない、あるいはこれまで手放すチャンスがなかったあらゆる機会で生じるすべての炭素を相殺する。

「自然を投資可能にした」

政府の観点から見ると、自然にはさまざまなかたちで具体的な価値を設定することができるだろう。持続可能なエコツーリズムや水産養殖の開発を推進することもできるはずだ。この場合、生態系の価値はそれがもたらす収益で測れる。

あるいは、自然に法的な権利を付与する、つまり、損害に対して賠償を求める権利を生態系に与えることもできると考えられる。そうすれば、汚染者にも自然を損なわないようにしようとする意識が芽生えるに違いない。しかし実際には、ドゥアルテが海草をはじめとした動植物の保護を訴えてきたこの30年間、政治が生物多様性保護のじゃまをしてきた。炭素取引だけが、ほかとは一線を画したスピードと規模で「自然を投資可能にした」とドゥアルテは言う。

とはいえ、炭素取引という仕組みにドゥアルテが心酔しているわけではない。「欲望をコントロールすることに失敗した」ため、苦肉の策としてカーボンクレジットという考えが生まれたと、ドゥアルテは説明する。加えて、カーボンクレジットは自然保護のために考案されたわけでもない。むしろ、カーボンクレジットが目的のための手段として自然を利用していると言える。樹木や海草草原、あるいはおそらくゾウやクジラなども含めて、炭素を隔離するあらゆる動植物が、気候目標を達成するための道具とみなされる。この意味で価値が認められる。炭素を蓄えない生き物は、例えばドゥアルテが愛するサンゴ礁も含めて、保護の対象とはならない。

ドゥアルテはまた、「カーボンカウボーイ」と呼ばれる連中が科学的な根拠のない炭素隔離プロジェクトを悪用して一獲千金を狙うのではないか、あるいは公共の天然資源であるべきものが私有化されることになるのではないかとも恐れている。市場のルールに正しく従っているように見えるプロジェクトでさえ、厳密な精査には耐えられない恐れもある。

23年の初め、ティグレスでの航海から数週間後、『ガーディアン』が、Verraのやり方を分析し、同機関の熱帯雨林プロジェクトの94%に対して懐疑的な見方を示した。記者は、一部の開発業者が「ファントム・クレジット(幻のクレジット)」を得ていたと報告した。つまり、森林保護を建前に、実際には谷をひとつ破壊したり、プロジェクトが回避に成功した森林の伐採量の測定に不適切な方法を用いたりしていたのである(Verraはこの調査結果に異議を唱えている)。

炭素計算において、樹木は比較的単純な要素であるはずだ。化石燃料の燃焼を足して、光合成を引く。林業はすでに、幹や枝に蓄えられている炭素を測定するツールを高度に発展させてきた。それでも、人が不完全な方法を用いれば、計算結果はあてにならない。

海草の場合は、計算は想像するよりも複雑だ。海草がもつ炭素吸収能力の高さに初めのうちは感心していた海洋生物学者たちも、話題がカーボンクレジットに移ると次第に懸念を表明し始めた。例えば、海草は空気ではなく水を介して二酸化炭素を吸収するため、特定の草原の吸収量を正確に測るのは困難だと、海洋生物学者たちは主張する。

ブライス・ヴァン・ダムという生物地球化学者が南フロリダで海草草原上空の空気に漂う二酸化炭素を測定したところ、光合成が活発になる午後にはより多くの二酸化炭素が海草に吸収されるはずなのに、実際には海水が二酸化炭素を放出していることを突き止めた。これは草原の海草やほかの生物が水の組成に変化を及ぼした結果だと、ヴァン・ダムは推論している(ドゥアルテは、ヴァン・ダムの前提に問題があったと主張する)。

もうひとつの問題は、炭素を幹や樹冠に貯蔵する熱帯雨林とは異なり、海草草原は吸収した炭素のほとんどを地下に蓄える点にある。カナダ水産海洋省で地球化学海洋学者として働くソフィア・ヨハネセンが海草の炭素貯蔵をテーマにした発表済みの論文を調査したところ、それらの多くはあまりに浅い部分のサンプルに基づいていることに気づいた。そのような炭素も永遠に閉じ込められていると考えられているが、堆積物はほかの動物や潮の流れによって簡単に乱される可能性もある。そのような論文を非営利団体や政府機関がまるで福音かのように受け入れていることに、ヨハネセンは驚いた。

「わたしでさえ、以前は『ブルーカーボン』について何も知らなかったので、非営利団体や政府機関が堆積物の地球化学について何も知らないのも当然なのかもしれません」と、ヨハネセンはわたしにコメントした。

炭素市場の根本的な不公平さ

チャミは、こうした科学的な不確かさに対処するために、代わりに地球規模の視点にフォーカスする。それは、地球上の海草草原は広大な炭素貯蔵庫の上に広がっていて、それらのすべてが破壊される恐れがある、というものだ。

チャミは自然資本を住宅ローンと比較する。住宅を買う人が銀行からローンを受けると、銀行はそのローンをさらに売り、売られたローンはほかのローンと交換されたり、ひとまとめにされたりする。どのローンにもそれぞれのリスクがあるが、資産としてバンドルしたほうがその不確実性をコントロールしやすい。金融業者が不確実性を問題視しないのは、それが利益の源だからだとチャミは指摘する。投じた資金は住宅ローン市場に戻ってきて、銀行はさらに多くのローンを発行できるようになる。個々の住宅や借り手の特徴は重要ではない。

「個々のケースをそれぞれ独特とみなしていては、視野を拡げることはできません」とチャミは言う。「市場をつくるには、製品を均一化する必要があります」。規模が破壊に抵抗する防波堤となる。ひとつの海草草原にこだわる必要はない。注目すべきは、多くの草原を包括して大規模な投資が行なわれる「海草市場」だ。

どの生態系も(吸収する炭素量を基準に)同じように扱うならば、脅威の程度の見極めは容易になる。チャミはその例としてガボンを挙げる。ガボンは22年、近年の熱帯雨林の保護を理由に、9,000万カーボンクレジットの販売を発表した。懐疑論者は、誰もガボンの木を伐採する計画を立てていないと指摘した。それに対してガボン政府は、もしこのカーボンクレジットに買い手が見つからなければ、木を伐採しようとする者が出てくるだろうと応じた。

バハマでは、デイヴィス首相が同じようなアイデアを披露し、海草保護は石油会社に今後30年間バンクで採掘させないための代償と言い換えられると主張した。ある側面から見れば、明らかな脅威が存在する。別の見方をすれば、炭素市場には根本的な不公平さがあることがわかる。現在すでに炭素吸収源の優れた管理者である人々がクレジットを得ることができないのはなぜだろうか?

わたしが話した数多くの海草研究者は、チャミの単純化した炭素計算法が正しくあってほしいと口を揃える。海草は絶対に保護を必要としている。それなのに、いまなお不確実とみなされ続けている。ヴァン・ダムは、海草の炭素量の標準的な計測法は、収益のみに基づいてビジネスを評価することと似ていると指摘する。ビジネスの全体像を理解するには、出ていく資金の完全な解明も欠かせない。面倒でも、すべての詳細について、とことん精査する必要がある。

同じ理由から、海草草原の収益化を急ぐこと──そしてさらなる二酸化炭素排出を正当化しようとすること──にヴァン・ダムは不安を覚えている。「海草草原にお金が絡んできたので、『ストップ』と言える人がほとんどいなくなりました」

最終的に等式は成り立つか?

ティグレスでの現地調査から数カ月後、バハマの環境保護コミュニティは首都ナッソーで開かれる会議に呼ばれた。そこには、自然保護委員会の地方支部や、バハマにある32の国立公園を監視する非営利団体バハマ・ナショナルトラストの科学者、そのほか小さな団体も招待されていた。会議はギャラガーの講演で幕を開けた。ギャラガーはBeneath the Wavesによるマップ作成の成果について振り返りつつ、問題点としてバハマの海草を死滅に追いやりつつある原因に関するデータの必要性を指摘した。

これは重要な問題だ。バハマ政府のブルーカーボン法はプロジェクトに対して、Verraなどの基準に従うことを要求している。つまり、保護活動が炭素貯蔵量をどれほど増やしているかを特定しなければならない。Beneath the Wavesは現存する海草およびその炭素貯蔵の詳細なマップを作成したが、5年前あるいは30年前のマップは存在しない。そのため、海草草原が広がったのか縮小したのかわからないし、その変化を人間が引き起こしたのかどうかも定かではない。

ギャラガーは、海草に対する数十億ドルの評価額は、保守的な見方を反映していると確信している。しかし、計画自体はバハマ政府の手に委ねられていると、指摘する。目が飛び出るほどの評価額や収益化への迅速な移行にもかかわらず、このあたりの事情について政府関係者はあまり多くを語っていない(政府関係者は再三にわたる取材要請を拒否し、『WIRED』に対してBeneath the Wavesに問い合わせるよう指示するだけで、それ以上の回答は拒んだ)。

一部の地元環境保護団体にとっては、この会議への招待状を受け取ったこと自体が驚きだった。わたしが話したバハマ人の多くは、Beneath the Wavesが最初に海草を「発見」したと主張し、海草のことを「目の前に隠れていた忘れ去られた生態系」と呼んだことに不満を募らせていた。地元民にとって、この言葉は侮辱的、あるいは少なくともまったくばかげている。漁師たちは海草のことをよく知っている。そこにあとから環境保護団体がやって来て、海草地帯のマップをつくり、保護計画を立てたのだ。

バハマ人として気候を研究するマルジャーン・フィンレイソンはわたしに、「外国からたくさんの白人研究者が来て、何の対話もせずに一方的に、これはバハマ人にとっていいことだと言うのです」とコメントした(ギャラガーは、海草にまつわる発見を政府に伝えた資金力豊かな団体としてBeneath the Wavesが海草保護の命を受けるのは当然だと指摘する)。

Beneath the Wavesに必要な情報を提供できるグループが存在するのか、定かではない。一方で、地元住民のほとんどは、海草は比較的良好な状態にあると確信している。もちろん脅威も存在するし、介入すべき点もあるが、バハマ人海洋生物学者のニック・ヒッグスが言うように、3,100の島々、岩礁、湾を誇るバハマでは、脅威も多種に及ぶ。

その例として、ヒッグスはロブスター漁を挙げた。これは、多くの人がわたしに指摘したように、海草にとって大きな潜在的脅威になると考えられている。ところが、ヒッグスが独自に調査した海域では、ロブスター漁はたいした問題ではなかった。しかしほかの場所ではその漁が海草に被害を及ぼしているのだとしたら、それぞれのコミュニティにおけるロブスター漁の命運は誰が決めるのだろうか?

バハマ大学で気候を研究するアデレ・トーマスは、海草を守るのはすばらしい目標だとしたうえで、バハマ人にとっての問題は、「わたしたちには、わたしたちが守ると主張しているものを維持するだけの力があるのか」という点だと付け加えた。お金だけで海草の問題を解決できるわけではない。

この議論の中心にある生物は、ある意味、どっちつかずの状態にあるようだ。価格の提案がなされたことで海草に注目が集まり、首相からも言及され、海草の健康に関する議論もようやく巻き起こった。そのおかげで、チャミに言わせれば、おそらく人々はほかの点でも海草を高く評価するようになった。例えば、島を襲う嵐の力を弱める役に立っているし、ほかの生物に生きる環境を提供している。この植物には、さらに3,000万年にわたって繁栄を続ける権利がある。

しかし、炭素市場の計算がその繁栄に貢献するのだろうか? 等式の左側、炭素が大気に追加されるという側面では、計算は明白だ。バレル数、走行距離、航空マイレージなどを集計するだけでいい。その一方、等式の右側、炭素を大気から差し引くという側面では、物事はそれほど明確ではない。海草草原で、クジラで、ゾウで、炭素がどう動くのか、わからないことが多いし、そうした生物の保護に費やされる資金の流れも不明瞭だ。

では、式の左右のバランスが崩れるとどうなるのだろうか? 炭素が増え、暑さが増し、ドリアン級のハリケーンが頻発したら? 汚染者への贈り物だ。フィンレイソンはこう表現する。「あなた方はわたしたちからあるものを奪い、その見返りに数ドルを投げつけるのに、それでもまだわたしたちを危険にさらしている」

チャミは、最終的には計算は釣り合うと信じている。もちろんその彼も、人々に特別な理由がなくても自然を大切にしてもらいたいと願っている。しかし、大切にするにはきっかけが必要だ。そしていまのところ、炭素への関心がそのきっかけになる。「わたしは、欺いたり、買収したり、誘惑したりしてでも、いまの世代の人たちに自然をそっとしておいてもらいたいのです」とチャミは言った。そうすればおそらく、自然を大切にする心をもった次の世代が育ってくるだろう、と。

WIRED/Translation by Kei Hasegawa, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)


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