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Content Subheads

● アラスカ先住民のソラスタルジア
● 50年の歴史で初めて漁場を閉鎖
● 奴隷労働と搾取の歴史
●「そんなもの食べてないで、自分たちで調達しなさいよ」
● 117億匹から19億匹に激減
●「この村は死にかけている」
● わたしたちの故郷

※この記事は「Grist」に最初に掲載され、天候に関する記事を専門とする「Climate Desk」とのコラボレーションによって転載された。

わたしを乗せたプロペラ機は、厚い雲を抜けて低空飛行に入った。眼下には真っ暗なベーリング海の深淵が広がり、そこにセントポール島のとがった島影が輝いて浮かび上がる。島にひとつだけの村が見えてきた。家が建ち並び、小さい港があり、細長く続く海岸に沿って道路が走っている。

アンカレッジから800マイルほど(約1,300km)離れたこのセントポール島には、およそ330人の住民が暮らしている。そのほとんどがアラスカ先住民であり、地元経済をほぼ全面的に支えているのがズワイガニ産業だ。ここベーリング海では、過去数年の間に100億匹のズワイガニが突如として姿を消している。わたしがこの地を訪れたのは、島の住民が今後どうするかを知るためだった。

アラスカ先住民のソラスタルジア

セントポール島に関する最近の経緯はもう耳にしているだろう。むしろ、耳にしすぎたあまり聞き逃していたとしても不思議ではない。アラスカのニュースは気候をめぐる悲哀に満ちており、そのどれも化石燃料の燃焼が引き起こした深刻な変化に関係している。

わたしはアラスカ生まれで、両親もそうだったので、20年以上アラスカ州の文化について執筆を続けてきた。アラスカとのかかわりということなら、わたしよりはるかに深い人もいる。なにしろ、アラスカ先住民は1万年以上も前からこの地に住んでいるのだ。

先住民コミュニティでわたしがレポートしてきたように、周囲の人を見ていると、わたしの歴史感覚など短いものであり、自然界は巡るものだと感じさせられる。アラスカの人々は、常にそれに順応してきた。

しかし、この数年間で経済と食物システムに混乱が生じ、火災や洪水、地すべり、暴風雨、海岸侵食、氷河の変貌などがどれも対応しきれないほどのペースで増加している。わたしが書く内容も、次第に科学と経済から、アラスカの住民が人里離れた場所で生存していけるかどうかという根本的な問題に移りつつある。

アラスカでは、人々のアイデンティティを風景や動物と切り離して考えることはできない。長く住み慣れてきた土地を捨てるというのは、考えただけでもその民族意識と歴史に深い影を落とす。アラスカの人々は、いまの土地にとどまるべきなのか、それがかなわない場合に何を支えにすればよいのかという問題を抱えている。これは、早晩すべての人類が直面する問題だ。

そこから想起されたのが、ソラスタルジア(solastalgia)、つまり環境破壊によって望郷の対象を奪われた人々が感じる悲嘆と憧憬だ。だが、この概念でさえ、この地にいま住む人々の感情を十分にとらえてはいない。

何年か前、わたしはある公営ラジオのエディターとして、アラスカ州南東部にある小さな町ヘインズに関する報道を扱っていた。記録的な雨量をもたらした暴風雨に関するニュースである。朝はいつものように始まり、現場のレポーターが関係各所に連絡をとりながら被害状況を調べていた。ところがその後、丘陵の斜面が崩れ、家屋が押し流されて中にいた人が亡くなった。

わたしはいまでも、このときのことを考える。くつろげる場所で、人がいつものように暮らしている。だが、それはいつ崩れ去ってもおかしくないのだ。現在のアラスカでの暮らしには、その根底に息苦しいような不安がくすぶっている。まるで、地盤の軟らかいローム層を何kmにもわたって広がっていく野火のようだ。それが突然、何の前触れもなく燃え上がるのだ。

もちろん、セントポール島に野火はなかった。あるのはただ、空港で乗り込んだトラックのフロントガラスにたたき付けられる大粒の雨だけだ。バックパックに押し込んでいたノートPCを開き、ひとつの疑問を打ち込む。「この島がまだ保っているものは、何なのだろうか──」

50年の歴史で初めて漁場を閉鎖

3月終わりに降り立った空港から続く砂っぽい道路は、何もない広大な草地の中を抜けていく。草地といっても、冬のいまはセピア色に褪せて見える。起伏を越えて見え始めた村の周囲には、錆びついたカニ捕りカゴがいくつも高く積み上げられている。

村は鞍部に沿って広がり、丘陵の脇には深紅色、黄色、青緑色などのカラフルな家々が並ぶ。そのなかに雑貨店、学校、診療所もあり、聖ペテロ&パウロ教会というロシア正教の教会もある。1786年6月、ロシアの探検家ガブリール・プリビロフがこの島に上陸した日がふたりの聖人の祝日だったことにちなんで命名された教会だ。現在の建築でも100年以上の歴史をもつ。静かな港にそびえ立つのは、世界最大級のズワイガニ加工工場だが、いまは灯りも消えている。

甘みと塩分がほどよいズワイガニ(学名:Chionoecetes opilio)はきっとご存じだろう。シーフードチェーンのメニューでもおなじみで、チェーン店「レッドロブスター」だと鮮やかな紅色の足をたっぷりのバターで食べる逸品が32.99ドル(約5,000円)。例年なら、米国内で消費されるズワイガニの大部分が、この工場から出荷される。所有者は、数十億ドルの売上を誇る企業、トライデントシーフードだ。

それほど遠くない昔、晩冬のカニ漁シーズン最盛期には、この工場の期間労働者で村の人口が2倍にふくれ上がるほどだった。毎日10万ポンド(約45トン)のズワイガニが水揚げされ、調理、冷凍、梱包されていたし、地元漁師の小船団が捕ってくるオヒョウの加工も盛んだった。カニをいっぱいに積んだ漁船がひっきりなしに入港し、荒れた大波を乗り越える漁船の姿がYouTube動画で話題になったこともある。

宵になれば村に1軒だけの酒場に人が溢れ、工場のカフェテリアは、村で唯一の飲食店ということもあって、地元住民にも開放されていた。例年であれば、カニと、カニ漁に対する地元への投資による税収が、島全体で200万ドル(約3億円)に達することもあった。

その後、カニの生息数が大幅に、しかも急激に減少する。科学者はこの激変を、海水温度の記録的な上昇と氷の形成の遅れに結び付けている。どちらも気候変動に伴う現象だ。

2021年、連邦当局は漁獲量の上限を大幅に規制。翌22年には、50年の歴史で初めて漁場を閉鎖するに至った。ベーリング海のカニ漁における業界の損失額は数億ドルに及んだ。セントポール島も、ひと晩で税収のほぼ60%を失っている。村では「文化的、社会的、経済的な緊急事態」が宣言された。予備予算があったため、コミュニティとして最低限の機能は維持されたが、救急医療サービスの費用を捻出するためにクラウドファンディングを始めざるをえなかった。

トラックのフロントガラスの向こう、丘の斜面に、村でひとつだけの墓地が見えてきた。並んでいるのは、ロシア正教会の十字だ。ひとつだけのラジオ局がヴァン・ヘイレンを流している。わたしは、文化的な緊急事態ということの意味を考える。

アラスカ先住民の村には何千年も前から人が住んでいるが、いまでは辺境で生活を維持するのは容易なことではない。外部から搬入される生活必需品や燃料の値段が高く、住宅の供給にも限界があって、働き口は多くない。セントポール島の人口は、カニの不漁より前から減少に向かっていた。若者は教育と就職の機会を求めて島を出ていき、高齢者は医療を受けやすい場所に移り住む。姉妹島であるセントジョージ島では、何年も前に学校がなくなり、いまでは40人ほどの住民しか残っていない。

気候関連の異常、例えば天候パターンの変化、海面上昇、魚類や動物の生息数減少といったレイヤーを経済的な問題に重ねてみると、移住への圧力は強くなるばかりだ。

住民がいなくなれば、貴重な無形資産も消えてしまう──1万年にわたって話されてきた言語、オットセイ油の味、植物で小さいカゴを編む技法、アレウト語で歌われる聖歌の歌詞など。そして何より大切なのは、その地で起こってきたあらゆることの集合的な記憶だ。セントポール島は、アラスカの歴史のなかでも中心的な役割を果たしてきた。そして、米国が先住民を不当に扱ってきた暗黒の歴史の舞台でもある。だが、人とその記憶が消えたら、いったい何が残るのだろうか。

記憶にとどめておくべきものは、あまりにも多い。

奴隷労働と搾取の歴史

プリビロフ諸島は、火山性の5つの島から成るが、いまでは住民のほとんどがセントポール島に集まっている。ゆるやかな起伏があって樹木はなく、沿岸には黒砂の浜と、荒海に臨む切り立った断崖が続く。夏になると、コケ類やシダ、芝、密集した灌木、可憐な野草などで島は緑で覆われる。毎年、数百万羽の渡り鳥が渡ってくることから、バードウォッチャーの間では「北のガラパゴス」と呼ばれるほど人気のスポットになっている。

海岸に沿って西にクルマを走らせると、半世紀前から家畜として飼い慣らされてきたトナカイの群れを目にすることがあるかもしれない。道は次第に高度を上げていき、やがて終着点に着く。そこからは、崖の上を軟らかいけもの道が何kmかにわたって続き、海鳥が頭の上を滑空していく。白い腹と真っ黒な翼をもつ何種類ものカモメ、エトピリカ、ウミガラスなどだ。

春先、島が緑で覆われる前の季節になると、崖を降りてウミガラスの卵を採るために昔の人が使ったロープが垂れているのも見られるようになる。キツネがあとをついてくる。ときどき、キツネが波の音に負けじと吠える声も聞こえてくる。

全世界のキタオットセイのうち3分の2近く、数十万頭が毎夏、繁殖のためプリビロフ諸島の海岸に帰ってくる。毛の密生度が高く柔らかい毛皮が珍重されたため、かつてキタオットセイは狩猟によって絶滅寸前にまで追い込まれたこともある。

外界と接触してからのアラスカの歴史は、外部の人間が先住民の文化を塗りかえ、土地、樹木、石油、動物、鉱物といった限りある資源を根こそぎにしてきた物語で満ち満ちている。セントポール島はおそらく、そのなかでも最古の例のひとつだ。

「ウナンガン」、いわゆるアレウト族は、ここから南に連なるアリューシャン列島に数千年前から住んでおり、早い時期に外界と接触した。1700年代にやって来たロシアの探検家たちだ。それから50年もしないうちに、先住民はほぼ一掃され、ウナンガンの人々は現在、アラスカと全世界に散って暮らしている。アリューシャン地域の人口は1,700人足らずでしかない。

セントポール島は、残されたウナンガンにとって最大級のコミュニティのひとつとなっている。住民の多くは、ロシア人によってアリューシャン列島から強制的に移住させられた先住民の末裔だ。祖先は、19世紀に巨万の富を生んでいた毛皮貿易の一環として、アザラシやオットセイなどを狩るために使役されていた。この島に根を下ろした毛皮産業は、奴隷労働の支えもあって、米国が1867年にロシアからアラスカ領を買い取る大きな動機にもなった。

ここに来るときの機内で、わたしはセントポール島の初期のオットセイ貿易における海賊行為の歴史が書かれた本を読んだ。2022年に刊行された、デブ・バネッセの『Roar of the Sea: Treachery, Obsession, and Alaska’s Most Valuable Wildlife(未邦訳)』という本で、なかでも印象に残った話がいくつかある。先住民によるオットセイ猟からの利益によって、米国はアラスカ買収のときに支払った720万ドルを1905年までに回収したというのだ。また、アラスカ買収後から実に20世紀半ばまで、米国政府は島民を使役し続け、その様は年季奉公と評されるほどだったという。

政府は、住宅、衛生、食糧、暖房などを島民に提供するよう義務づけられたが、そのどれも十分ではなかった。ウナンガンは「国の被後見人」として扱われたものの、補償されたのは缶詰食品のわずかな配給だけだった。週に1回、島の先住民は暮らしのための狩猟と漁業を許されていた。住宅の点検もあったが、それには衛生状況の把握のみならず、自家醸造の摘発という目的もあった。島内・島外とも移動は厳重に管理され、手紙は検閲された。

1870年から1946年までの間に、プリビロフ諸島のアラスカ先住民が稼いだ金額は210万ドルと推定されているが、政府と民間企業がかき集めた収益は4,600万ドルに上った。不公正な行為の一部は実に60年代まで続き、その時点でようやく、島の先住民に対する政府の扱い方が広く世界に知られることとなる。政治家、活動家、アラスカ先住民の新聞「ツンドラ・タイムズ」などが働きかけた結果だった。

第二次世界大戦中には、日本軍にアラスカのダッチハーバーを爆撃されたことを受けて、米陸軍はろくな予告もなくセントポール島の住民を集め、1,200マイル(約2,000km)離れたアラスカ南東部のファンター湾へ移送。島民は、そこにある老朽化した缶詰工場に収容された。人のいなくなった島では、兵士が先住民の家を好き放題に略奪し、トナカイも大量に虐殺する。日本軍がこの地を占領した場合に何も残らないようにするためだ。政府の弁によると、この移住と収容は保護のためだということだった。

にもかかわらず、オットセイ猟の季節になるとウナンガンの人々を島に戻していた。不衛生な環境に詰め込まれ、食糧も乏しいなかで、多くの島民が死んでいった。だが、このときウナンガンはアラスカ南部トリンギット族との接触を果たす。トリンギットの人々は、Alaska Native Brotherhood/Sisterhood(アラスカ先住民友好団体)を通じて何年も前から政治活動を展開していた。

戦争が終わると、ウナンガンの人々は島に戻り、生活水準の改善を求めて組織化と運動を始める。51年には、オットセイ産業で働いていた先住民が政府を相手取って訴訟を起こしており、これは「コンビーフ事件」として知られている。訴状によると、先住民の賃金はコンビーフ缶などの配給というかたちで支払われていたが、島の白人労働者は新鮮な肉を受け取っていたのだという。数十年にも及ぶ訴訟の末、先住民の訴えが認められ、800万ドル以上が支払われている。

「政府は『快適な生活』を提供する義務があったにもかかわらず、プリビロフ諸島のアレウト族が置かれた状況は、むしろ『悲惨』で『悲痛』という言葉こそふさわしいものだった」。判決文にはこう記されている。79年、インディアン請求委員会による裁定だった。同委員会は、先住民からの訴訟を解決すべく40年代に設立されていた。

84年に商業オットセイ猟が停止されると、セントポール島はようやく繁栄と独立を手にする。政府は漁業関係者を派遣して、地元民にオヒョウの商業漁業を指導し、カニ加工に適した港を建築する資金も提供した。90年代のはじめごろには、カニの漁獲高が増え、毎年2億~3億ポンド(約9万トン~14万トン)に達した(参考までに、2021年、つまりカニが顕著に減少し始めた最初の年には漁獲の上限が550万ポンド(約2,500トン)だったが、実際の漁獲高はそれにも満たなかった)。島の人口は、ピーク時の1990年代はじめに700人を超えたが、それ以降はゆっくりと減少に向かっている。

「そんなもの食べてないで、自分たちで調達しなさいよ」

わたしがこの島を訪れることにした理由のひとつは、アクィリーナ・レステンコフに話を聞きたかったからだ。レステンコフは、言語の保全に深くかかわっている歴史家だ。彼女に会ったのは、雨の日の午後、明るい青に塗られた木製壁の市民会館だった。教室や事務所も併設されていて、書籍や工芸品、歴史を語る写真などが溢れている。彼女が挨拶として最初に口にした単語は、のどの奥で発せられ、「ソング」と韻を踏む音だった。

「Aang(こんにちは)」

レステンコフはセントジョージ島生まれで、4歳のときセントポールに移ってきた。同じくセントジョージ島で生まれた父が村の司祭になった。レステンコフは白髪まじりの長髪で、両頬には点と線で描かれたタトゥーを入れている。点の一つひとつが彼女の一族の一世代が住んだ島を表しているそうで、アリューシャン列島のアッツ島から始まって、一族は次にロシアのコマンドルスキー諸島に移った。ここは、奴隷によるオットセイ猟が営まれていた島でもある。そして、アトカ島、ウナラスカ島、セントジョージ島、セントポール島へと移り住んだのだった。

「わたしは、5番目の世代として、6つの島を通じた物語を伝えようとしているのです」とレステンコフは話す。

彼女は、村の行政責任を担ういわゆるシティマネジャーと結婚しており、孫もいるし、村の多くの人間が親類縁者だ。この10年は、先住民の言語であるアレウト語の復興に取り組んでいる。アレウト語を流暢に話すのは、この村ではもはや老人ひとりだけだ。村の多くの人が理解し、ある程度は話すこともできるが、流暢な話者は全世界でも100人に満たない。

1920年代、子どもだった父は、政府から派遣された教師に、アレウト語を話した罰として舌に辛いソースを塗られたという。子どもたちには、アレウト語を押し付けようとはしなかった。言語には、自分が住む土地やコミュニティに対する理解を形成するという側面がある。レステンコフは、そのなかで自分にできる部分だけでも存続させたいのだと語った。

「[父は]『わしらの言葉で考え、わしらの見方で考えたら、わしが言いたいこともわかるんだがな』と言ったものです。はぐらかされている気がしました」

レステンコフは、一面に四角い紙が貼られている壁を指し示した。アレウト語の文法をたどっているのだ。その文法をチェックするために、流暢な話者を探し出す必要があるのだという。例えば、「コーヒーを飲む」と言いたい場合には、と彼女が説明してくれる。その場合は、「飲む」に当たる単語を添える必要がなく、語尾を変えるだけでコーヒーという名詞を動詞に変えられるのだそうだ。

レステンコフのプログラムは、カニ漁に投資していた地元の非営利団体から、その後は助成金によって資金援助を受けていたが、最近になってそれが打ち切られるかもしれないと知らされた。彼女のもとで学ぶ学生は、村の学校に通っており、それも人口減に伴って縮小されつつある。カニが戻ってこなかったらどうなるのか、とレステンコフに質問してみた。人の暮らしは続くだろうが、村の様子はおそらく変わるという答えだった。

「ときどき思うんです。この島に500人が住むというのは、そもそもよいことなのかと」

人がいなくなったら、島の歴史はどうなるのでしょうか、と質問を重ねる。

「どうなるって、決まってますよ」。笑いながらそう答える。「歴史は繰り返すものです。愚かな歴史を繰り返すんです」

最近まで、カニ漁の季節になるとベーリング海には70隻ほどの船団が乗り出していた。その大半はワシントン州から出航した船で、船員は米国全土から集まってきた。カニ産業で働く村民はほとんどいない。仕事が短期間しか続かないからだ。それよりは、オヒョウの商業漁業に従事するか、地元の役所や先住民組織、あるいは観光業で職を得る。

加工業は過酷な肉体労働であり、週7日労働や1日12時間労働になることもある。平均時給は17ドル(約2,500円)だ。アラスカの多くの加工業と同じように、カニ漁の働き口の多くは、フィリピンやメキシコ、東ヨーロッパから短期ビザで就労する地元以外の労働者が占めている。

カニ工場の状況は、商業オットセイ猟の動きと重なる、とレステンコフは説明する。工場の労働者は故郷を離れ、低い賃金で重労働を強いられる。工場はアラスカの資源を枯渇させながら、カニを全世界に送り出している。このシステムはおそらく、持続可能なかたちではアラスカに利益をもたらさないのだ。カニに舌鼓を打っている人々は、それが食卓までどれだけの距離を運ばれてきたのか、知っているのだろうか。

「わたしたちの海が、なんとアイオワの人に食糧を提供しているんです。そんなもの食べてないで、自分たちで調達しなさいよ」

117億匹から19億匹に激減

海水温度は世界中の至るところで上昇しているが、海面温度の変化は北半球の高緯度地方が最も著しい。北太平洋で一貫して温度が上昇しているため、その北方に広がるベーリング海でも、海洋熱波のために水温が上がっている。過去10年でこうした海洋熱波は、発生頻度も持続時間も、100年以上前に記録が始まって以来ずっと増え続けている。科学者によると、この傾向は今後も続く見込みだという。

ベーリング海で2016年から19年まで続いた海洋熱波は記録的な温暖化をもたらし、冬が来ても氷が形成されないという事態をもたらした。また、寒冷な海に生息する生物種、例えばマダラやスケトウダラ、アザラシやオットセイ、海鳥、そして何種類かのカニにも影響を及ぼしている。

ズワイガニの個体数は常に変動するが、18年の調査では、その数が爆発的に増え、市場に出回るサイズのオスが60%も増加したとされる(狩猟の対象になるのは一定サイズのオスだけである)。それが、翌19年には50%にまで急激に減少した。コロナ禍のため2020年の調査データはないが、21年の調査でオスのズワイガニは18年のピーク時から90%以上も激減する。ベーリング海に生息する主なカニはすべて、タラバガニやオオズワイガニ(バルダイ種)まで含めて、それよりはるかに少なかった。最新の調査によると、ズワイガニは18年の117億匹から22年には19億匹にまで減っている。

若いズワイガニの数に大きな変動があったのは、海水温度が異常に上昇して氷の形成が少なくなった直後だった、と科学者は考えている。このような温度上昇によって暖かい気候に住む動物が北上し、カニやスケトウダラ、マダラなど寒冷な海の動物を追いやったというのが、ひとつの仮説だ。

もうひとつの仮説として、食糧問題も挙げられている。カニの生息には冷たい水が必要だ。正確にいうと、摂氏2度(華氏35.6度)以下の水を必要とする。これをもたらすのは暴風雨や氷の融解で、それによって海洋の底に冷たい水がたまる。水が冷たければ、カニの新陳代謝が遅くなり、必要な食糧も少なくなる。

ところが、海底の水温が上がると、必要な食糧が多くなってエサが不足する。餓死したり、共食いしたりした結果、壊滅的な状況が続いていると推定されるのだ。いずれにしても、鍵となるのは海水温度だ。そして、地球の温暖化に伴って海水温度が上がり続ける兆候は、揃いすぎるくらい揃っている。

「氷がなくなれば、2℃以下の海水も失われます。冷たい水は、極地の動物にとって不可欠なものなのです」と、米国海洋大気庁で甲殻類アセスメントプログラムマネジャーを務めるマイケル・リゾウは話している。

ズワイガニの数は数年で戻る可能性もあるが、それも海水温の上昇が起こらなければ、である。逆に温暖化の傾向が続くようなら、海洋熱波が再発し、再びカニの生息を脅かすことになるだろうと科学者は予測する。

「この村は死にかけている」

セントポール島のなかでも、人里離れた土地には動物の骨が散らばっていて、さながら旧約聖書に登場するエゼキエルの谷のようだ。トナカイのあばら骨、オットセイの歯、キツネの大腿骨、クジラの背骨、あるいは空気のように軽い鳥の頭蓋骨が草むらに隠れており、岩がちな海岸には豊かに存在した野生生物と200年にわたるオットセイ猟の証拠が転がっている。

わたしは、シティマネジャーであり、アクィリーナの夫でもあるフィル・ザヴァディルのオフィスを訪ねた。オフィスのコーヒーテーブルには、アシカの肩甲骨が2つ載っている。これは「イエス/ノー」の骨と呼ばれており、上部にはひれが、下には重い球が付けられている。セントポール島では、これがマジックエイトボール(ビリヤードの8番ボールに似た外見で、二択の質問にいろいろな断定度の答えを示してくれる占い遊びのおもちゃ)のように使われているのだ。この骨を落としたとき、ひれが右を指していれば答えは「イエス」、左を指していれば答えは「ノー」ということになる。一方の大きい骨には「セントポール村、重要事項決定用」と書かれており、もう一方には「予算の骨」と書かれていた。

村の長期的な財政状態は、突然カニがいなくなったときでも緊急事態というほどではなかった、とザヴァディルは説明してくれた。カニ漁の全盛期に投資を行なっており、予算をいくぶん緊縮すれば10年間は維持が可能だという。

「ただし、それも極端な変化がなければの話です。大幅な削減を必要としないために、やはりある程度はカニが戻ってきてほしいですね」

カニ漁の打撃を埋める経済対策として最も容易なのは、工場をほかの魚類の加工処理に転用することだろう、とザヴァディルは言う。規制上の障害はあるものの、乗り越えられないほどではない。村の指導者は、海藻、ナマコ、ウニなどの養殖も模索している。これには市場調査と、セントポール海域に適した養殖方法の試験が必要になる。所要期間は最短で3年程ではないかとザヴァディルは読んでいる。あるいは、観光に力を入れる手もある。島には、毎年300人ほどの観光客が訪れる。そのほとんどが、熱心なバードウォッチャーだ。

「ただし、数を2倍に増やさなくてはいけません」、とザヴァディルは言う。

鍵となるのは、労働年齢の成人がある程度より多く島を離れないうちに経済を安定させることだ。いまでもすでに、住民の数より求人数のほうが上回っている。高齢者は亡くなっており、小さい子どものいる家庭は島外に移りつつある。

「あるとき、『この村は死にかけている』と言ってきた人がいました」。ザヴァディルはそう語ったが、彼自身はそうは考えていない。実際に働いている人はまだいるし、試すべき対策もまだまだあるからだ。

「警戒が必要なのは、わたしたちが何もしない場合です。わたしたちは、出来る限り問題に取り組み、対策を立てようとしています」

わたしたちの故郷

アクィリーナ・レステンコフの甥、アーロン・レステンコフは、先住民政府のもとで島の管理人を務めている。野生生物を監視したり、絶えず海岸に漂着するゴミを除去したりする仕事だ。その彼が、でこぼこ道にクルマを走らせて、間もなくオットセイの群れが集まって賑やかになる海岸まで連れていってくれた。

クルマが停まると、わたしはアーロンのあとについて、節だらけの植物が茂りオットセイの糞の匂いがする広い草原に向かった。数頭のオットセイが岩の向こうから顔を出す。目が合うと、身体を揺らしながら波しぶきの中に消えていく。

かつて、オットセイ猟で働くアラスカ先住民は、浜に集まった群れの中に入っていき、棍棒で頭をたたいて心臓に刃物を突き刺していたという。毛皮を取り、食糧として肉の一部を切り取って、残りは廃棄していた。そのような動物の狩り方は、ロシアが来る以前にアレウト族が自然と接していた態度とは矛盾するものだ、とアクィリーナ・レステンコフは説明する。

「動物の命を奪うときには、それに伴う祈りと儀式がありました。水に頭を突っ込むことで、命とつながっていたのです」

毛皮のためにオットセイを殺すようになると人は無感覚になった、とレステンコフは話す。その無感覚さが、世代から世代へと受け継がれていった。カニ漁の時代は、乱獲を続けてきた時代の、ある種の償いだったのだ。そこに気候変動が加わって、問題はいっそう複雑になった。

第二次世界大戦中の収容所時代の話を年長者から聞いたことがあるか、とアーロンに尋ねてみた。すると、祖父つまりアクィリーナの父が、収容所ではバケツの水でネズミを溺死させなければならなかったという苦い経験をときどき語ったことがあるという。そんなやり方で動物を殺すことが強制されたのは、収容所にネズミがいっぱいだったからだ。

だが、祖父にとっては自然の秩序を侮辱するに等しい行為だと感じられた。その罪の報いを、祖父はやがて受けることになる。自然界で人間がなす行為には必ず相応の結果が伴う、というのが祖父の口癖だった。その後、祖父は息子をなくす。そのとき、ネズミを溺れさせたことを思い出したのだという。

「祖父の息子は港で遊んでいて、波が波止場を洗っていました。息子は波にさらわれ、そのまま見つからなかったそうです。祖父から聞いた話は、たぶんこれだけでした」。アーロンはこう話してくれた。

わたしたちは、岩だらけの浜を降りていく道を進んだが、浜はゴミだらけだった。色の落ちたブイや、ばらばらになったプラスティック製の釣り用手袋と長靴が落ちていて、古い船の皿洗い機が口を開けている。アーロンによると、この島の動物も少し変わりつつあるという。鳥の数が減った。何頭かのオットセイは、南に移動せず通年で島に住むようになった。その数も減っている。

島民はいまも魚を捕り、海洋哺乳類を狩猟しているし、海鳥の卵を集め、ベリー類を採っている。アーロン・レステンコフは、アカアシミツユビカモメやケワタガモを狩るが、そういった鳥を好んで食べるわけではない。好んで食べる年長者のために捕っているのだが、それも難しくなりつつある。

カニが戻ってくるのを待ち望むほどの不漁は予想していなかった。村はカニ漁船に投資し、そこからの収入が老人たちの暖房費になってきた。カニ漁船は、老人たちの冷凍庫にカニやオヒョウを届け、村の教育事業や環境浄化の取り組みに必要な予算もまかなった。だがいまでは、カニがいなくなったことが「われわれの収入とコミュニティに影響しています」とアーロンは語る。

ほかの産業を振興し、観光業を育成するという展望についてアーロンは楽観的だ。島からはなんとしても離れたくないので、そうなることを願っている。娘は島を離れて全寮制の高校に通っているが、それは島に高校がないからだった。成人したとき、娘が島に戻ってこの村で暮らすことを希望してくれれば、と彼は願っている。

日曜日の朝、聖ペテロ&パウロ教会の鐘の音が霧のなかに鳴り響いた。148年の歴史をもつ鐘だ。年輩の参列者が数人ゆっくりと聖堂に入ってきて、男女に分かれて立ったまま参列する。出迎えるのは、金で飾られた聖人たちのイコンだ。この教会は、ロシアによる占領が始まったその日から村の生活の一部となっている。村人たちによると、アレウト族が歓迎される数少ない場所のひとつだったという。

ときおり司祭が島にやって来るが、この日は副補祭を務めている地元のジョージ・プレニコフ・ジュニアが90分にわたって英語、教会スラブ語、アレウト語で祈祷した。ジョージは、アクィリーナ・レステンコフの言語の授業も手伝っている。新婚で、生後6カ月の子どももいるそうだ。

礼拝が終わると、ジョージはこう話してくれた。みんな、この島に住むべきではないのかもしれない。島の歴史は過去のものとして置き去りにすべきなのだ──

「心の傷になった場所ですからね」

漁業中心の経済で村を支えきれなくなり、生活費の関係で住民の暮らしが立ち行かなくなるのは、もう時間の問題だとジョージは言う。彼自身も、南のアリューシャン列島へ家族ぐるみで移住することを考えているという。祖先のいた土地だ。

「ニオルスキー、ウナラスカ。わたしたちの故郷です」

次の日、空港へ向かう前にわたしはもう一度アクィリーナ・レステンコフの教室に立ち寄った。集まっていたのは中学生くらいの学生数人で、みんな大きすぎるセーターを着込み、ハイトップのナイキを履いていた。わたしを迎えてくれた学生たちが、輪になってアレウト語で自己紹介する。言葉を覚えやすいように、身ぶり手ぶりを付けていた。

その後、わたしは学生たちと一緒に作業テーブルについた。レステンコフは、紙のように乾いたオットセイの食道を縫い合わせて防水性のポーチをつくる方法を指導する。何世代も前の祖先たちが島から島へと移り住みながら伝承してきた言葉と技術を学び、それを聞き取り、感じ取る。それを無意識に出来るくらいにまで繰り返し、今度はそれを自分の子どもたちにも伝えてほしい、そう願っての指導だった。

WIRED/Translation by Akira Takahashi, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)