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ケリー・ペンダーグラスト

テクノロジー、エコロジー、デジタルイメージ、物質文化を専門とする作家・研究者。アンナ・ペンダーグラストとともに、デジタルのテクノロジー、エクイティ(公平性)、メンテナンスに関するエッセイ集『More Zeros and Ones』を編集。

キム・カーダシアンの最新プロダクト・ラインは、灰色のティッシュ箱、綿棒ケース、ゴミ箱……。何やら威圧感のある、コンクリート製のパウダールーム用品収納セットだ。「SKIMS」(シェイプアップ下着ブランド)、「SKKN BY KIM」(スキンケアブランド)に続いて2022年後半にローンチした。ドライで、無機質で、ミステリアスな雰囲気さえあり、まるでゲイリー・ラーソンの漫画に出てくる原始人をインテリア・コーディネーターに雇って、どこからか拾ってきたもので洗面台を飾らせたかのようだ。

「このコンクリート素材とモノトーンのデザインは、わたしの心のウェルネスに重要な要素なんです」と、カーダシアンはウェブマガジン「Architectural Digest」のインタビューで語っていた。コンクリートが……健康にいい? 思わず、靴と靴下を脱いでざらつく歩道に素足で立ち、コンクリートの塊を足裏に感じながら恍惚とした表情を浮かべ、一面に広がる灰色の地面からパワーを得ている彼女の姿を想像してしまった。お気に入りだった活性炭健康法をやめ、整腸作用や美肌効果があるとして粉末状のコンクリートを飲んでいる姿を。翡翠の卵?[編注:「ヨニエッグ」とも呼ばれる膣ケア用の卵型の天然石] いや、コンクリートの卵でしょ。ウェルネスはコンクリートから始まるのだ!

Content Subheads

● どんなものも除去できる世界
● プラスチックを消化する身体
● テクノロジーによる消化の未来
● 消化プロセスの創造性と美学

落ち着いて考えれば、コンクリートは健康を促進したりはしない。全世界のCO2排出量の8%はコンクリートに起因するものだし、コンクリートの粉塵を頻繁に吸い込めば肺をやられてしまう。コンクリートの街並みは洪水被害を悪化させ、ジョギングする人の関節をも悪くする。建設資材としてコンクリートが欠かせないおかげで、世界中で特定種の砂が消えつつある。

とはいえ、ほかの高級ブランドでもコンクリート製の家庭用品は販売されている。コム・デ・ギャルソンの、コンクリートで覆った香水瓶もそのひとつだ。しかし、それらは通常、粗野で無骨な質感を出すためにコンクリートを使っているのであって、ウェルネス向上のためではない。だが、カーダシアンは錬金術に長けている。紛れもなく産業の近代化によって生み出された、1世紀分に相当する建築やイデオロギーのお荷物ともいえるこの素材を、彼女は健康的で親しみのある、セルフケアに欠かせないものとして生まれ変わらせたのだ。

常に時代の先端を行くセレブである彼女は、わたしたちがようやく気づき始めたことに、とっくに注目していたのだろう。

プラスチックの生産をやめればいい、セメント造の巨大建造物をつくらなければいい、なんて言ったところで、とうてい実現しそうにもない。何十年と活動家が抗議運動をしようと、政治家が新政策を打ち出そうと、シンクタンクが考えをめぐらせようと、結局のところグローバル化した資本主義の波も、停止することのない製造機から吐き出されるペットボトルやポリエステル混紡の衣料品や人気のぬいぐるみ「スクイッシュマロ」の雪崩も、せき止めることはできなかった。

パイプラインを爆破するのも革命を扇動するのも、たいていの人には想像もつかないほどの強固な結束力と物流力のネットワークが必要だ。そうしている間にも、マイクロプラスチックはわたしたちの血液中に入り込んでいる。

そして残ったのが、カーダシアンと彼女のコンクリート・シリーズが示唆する代替案だ。それはつまり、地球環境の毒にまみれた残酷な現状を、比喩的に(あるいは文字通りに)消化して別のものに変える方法を学ぼうというものだ。もしくは、それによってわたしたちのほうが変わっていくのかもしれない。あるニヒルなツイッター(現X)ユーザーが「毎朝のシリアルにグラスファイバーの破片を少し混ぜて、体を慣らすようにしてるんだ」などとつぶやいていた。わたしたちは、メタボリズム(新陳代謝)の時代を迎えているのだ。

どんなものも除去できる世界

ノンヒューマン(非人間的な存在)は、わたしたち人間が自分の存在について、そして堪えがたい状況に対処するため模倣する行動のメカニズムについて理解し表現したいとき、役立つメタファーを与えてくれる。

ここ10年ほど、マッシュルームやキノコといった菌類がこうしたメタファーの対象として注目を集めていることにお気づきだろうか。菌類がもつイメージは、とても強力だ。なぜなら菌類は、無限に成長できる世界を思い描かせてくれるからだ。それに、おそらく環境にも恩恵をもたらす。キノコさえあれば何だってつくれる。家でも橋でもハンバーガーでも、そのハンバーガーを入れる箱さえもだ。

また菌類は、インスピレーションを得たいときに頼りになるパワフルなノンヒューマンでもある。キノコは世界が終わる最後のときまで繁殖し、広大な地下ネットワークを形成し、神秘に満ちた洞察を与えてくれる。

でも最近では、代謝というメタファーやプロセスが、文化の構成要素としての菌類の地位と並び、さらには追い越しつつある。より現実的なところでは、あらゆるタイプの危機に対する一般的な解決策として、消化プロセスが利用されるようになった。コンポスト(生ゴミからの堆肥づくり)、バーミカルチャー(ミミズによる堆肥農法)、どんなものも消化するバクテリア、腸内フローラ改善のためのバイオハッキング(身体改造)などがそうだ。

そのほか、人がいかにして感情を処理しフィードバック・ループを構築するか、また都市がどう成長しているのかを表現する際にも、代謝という言葉がメタファーとして使われている。

菌類のモデルとは反対に、メタボリズムで想像するのは、どんなものも除去できる世界だ。もし無限の成長への衝動がこのナンセンスで有毒なものにまみれた世界をもたらしたのなら、わたしたちはそれを、すべて噛み砕き腹を壊すことなく消化することも、代謝してくれるバクテリアをつくりだすことも、新しい未知のものに変化させることもできるだろう。

メタボリズムには、“神的な存在”もなければ、交わしたり学んだりする意識もない。菌類が注目された時代では、正体不明なノンヒューマンの潜在的知性が崇められ、破滅のなかからも希望を見出せると信じられていた。一方、メタボリズムの時代は、屈服、偉大なる酵素への従属、変革的な消滅への願望というのが鍵だ。メタボリズムは、この“利用可能な世界”の終焉でこそ意味をなす衝動だ。もしわたしたちが、現在の人類のあり方に辟易し、この星の物質を使い果たしてしまったのであれば、わたしたちは根本からの破壊を受け入れるべきときにある。

プラスチックを消化する身体

メタボリズムのクリエイティブかつ終末論的な例が、デヴィッド・クローネンバーグ監督の最新映画『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』に鮮やかに描かれている。環境の悪化と数々の気象現象により地球全体が腐敗と荒廃に陥った近未来を描くこの映画は、人間の消化機能に何が起こるかを想像したものだ。

ここでは、一部の人間がプラスチックを消化し栄養を摂取できる身体に進化している。冒頭のシーンで、バスルームにしゃがみ込み、プラスチックのゴミ箱を衝動に駆られるかのように貪り食う少年の姿が映し出される。なんと、プラスチック食者の地下組織が存在していたのだ。彼らは、プラスチックやそのほかの汚染物質をよりよく代謝できる身体を得るために、手術や治療を受けていた。

この世界は、浄化するにはもう手遅れだ。毒素は風土病のごとく蔓延している。プラスチック食者たちは、腐敗しきった環境のなかで繁栄していくために人体を進化させることが最善の道だと考えていた。この映画は、人類がつくり出した有害なものすべてをどう代謝すべきかということへの不安と、倒錯した新しい消化の概念を伴うような身体的・社会的変容を経験したいという願望との間で揺れ動く、わたしたちの時代思潮の根本にあるものをとらえている。

このシナリオは、いまの現実からそれほど掛け離れてはいない。環境に悪影響を及ぼすプラスチックを代謝しようという取り組みは、順調に進んでいる。科学者たちはすでに、プラスチックを消化できるように進化した微生物や細菌の菌株を複数発見している。

Comamonas testosteroniは、植物やプラスチック由来の混合廃棄物を代謝することができる。Ideonella sakaiensisは、ポリエチレンテレフタレート(PET)を酵素の力で分解する。プラスチックの微生物分解に関する新たな研究が発表されるたびに、誇張気味ではあるものの、期待に満ちたニュース記事が続々と登場する。「リサイクルに突破口出現か」「世界で最も差し迫った環境問題の解決につながる新発見の可能性

人々は、この窮地を自ら消化し切り抜けるという考えに大賛成だ。プラスチックを食べるバクテリアを大規模に実用化できるかどうかは、さらなる研究・調査が必要だ。とはいえ、それについてはいくつか動きがある。例えば、プラスチックの分解酵素の開発を進めている資金力豊富なフランスの「カルビオス(Carbios)」社は最近、世界初のPET“バイオリサイクル”プラントに出資することを発表した

しかしながら、科学者の多くは、微生物分解が海洋や陸上の汚染問題の解決策として有効であるという考えには懐疑的のようだ。いまのところ、プラスチックの大規模消化は夢物語のままである。

テクノロジーによる消化の未来

メタボリズム的思考の到来は、有害物の消化方法を学ぶことに関してだけではない。空想の世界でも、「消化される」ことへの願望と不安の両方が広まっているのだ。

ストレスを抱えているときに、ほかの代謝システムに潰され消費されることを想像すると落ち着くという人がいる。「なぜみんな、好きな人にクルマで轢かれたがるの?」数年前、ウェブマガジン「The Cut」が、ある記事の見出しでそう問いかけていた。憧れの人に粉々に砕かれることを夢みるのは、自分自身の主体性から解き放たれ、破壊され、再構築されることを望むからだ。意識があることの痛みから逃れて、ほかの誰かのために生まれ変わりたいという欲望を象徴している。

この「自己を抹消したい」という衝動がより露骨に現れているのが、VORE(ヴォア/ヴォラレフィリア)とも呼ばれる「丸呑みフェティシズム(フェチ)」だ。丸呑みフェチとは、生きたまま丸呑みされたい、丸ごと貪り食われたい(あるいは反対に誰かを丸呑みしたい、貪り食いたい)という性的欲求のことで、ロールプレイやイラストで表現されることが多い。丸呑みフェチの世界では、消化のプロセスは被食者と捕食者の関係を象徴している。相手に文字通り摂取されることでのみ得られる、ある種の強烈な緊密さへの憧れ、願望の現れだ。

丸呑みフェチからそう遠くないのが、自分の脳をクラウドにアップロードし、別のシステムに吸収されビットやバイトに変換されることで死を超越しようという、トランスヒューマニズム(超人間主義)の夢だ。レイ・カーツワイルは、脳をクラウドに接続することで技術的不死を得られると提唱したことで知られており、著書『シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき』のなかで「保守的に見ても2030年代の終わりまでには脳のアップロードが実現されていると予測できる」と述べている。

ロシアの起業家ドミトリー・イツコフの「2045イニシアチブ」(現在はほとんど立ち消え状態だが)は、「より高度な非生物キャリアに個人の人格を移植する技術と、不老不死を視野に入れた延命技術の開発」を目指していた。テクノロジーによって吸収され不滅の存在になりたいという彼の願望には、個々の意識はそれぞれ重要であり、個人の創造物は比類なきパワーを秘めるという信念がこもっている。カーツワイルのような技術者が、自分のつくり出したマシンに分解されることを望むのは当然のことだろう。

同様に、生成AIをめぐる最近の話題のなかには、代謝プロセスに対する相反した反応が現れているものもある。大規模言語モデル(LLM)や画像ジェネレーターは、貪欲な企業利益を満たすため、文化的なアウトプットや行動データなどの生の素材を摂取し変換する巨大な消化システムだ。そこら中に拡散した人間の努力の残骸を吸い上げ、巨大なブラックボックスのようなAIシステムの腹の中へ飲み下す。そして、超越的で、即興的で、有益な何かに変化させるのである。

トランスヒューマニズムに対するのと同じように、世界最大の消化管、ひいては世界最大の(そして最も収益性の高い)集合知をつくり出す新たな機会の出現に、強く興味を惹かれる人もいるだろう。そのほかの人にとっては、自分たちの労力と創造性が、どこかの無責任な企業の所有・管理する生成AIの糧にされているという事態に、大きな不安を抱いているに違いない。企業によるメタボリズムの貪欲なプロセスに、望まずして参加させられるのだとしたら、テクノロジーによる消化の未来を楽観的に考えることは難しい。

消化プロセスの創造性と美学

キム・カーダシアンのコンクリート・ウェルネスと『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』は、消化に関する相反したふたつの感情を浮かび上がらせた。もし地球環境が地上最大最悪の企業らによって排出された汚染物質で、どうにもならないほど満たされているのだとしたら、この毒性を消化するすべを学ぶのは賢明な対処法といえる。

もちろん、有毒物質の消化プロセスのなかには創造性や美学を伴うものがあったっていい。カーダシアンの場合、それはミニマリスト的な家庭用品だし、クローネンバーグの映画では奇怪で斬新なセックスやパフォーマンスアートのかたちだった。わたしたちは、どんなに悲惨な状況からでも快楽や芸術を見出すことができるし、またそうするべきなのだ。映画監督のブーツ・ライリーが最近のインタビューで語っていたように、「文化とは、わたしたちがこの世の中を普通に生き延びていくための営み」なのだから。

とはいえ、こうしたメタボリズムの展望からして、わたしたちはまだ当分の間、自分たちを忌み嫌うシステムの排泄物を吸収し続けなければならない。そして、それを消化する能力は拡大し続けている。もしわたしたちが巨大で奇妙な生態系と代謝システムの一部としての役割を受け入れ、創造的で表現豊かな消化の可能性を試してみたら、どうなるのだろう。

メタボリズムほど自然で、かつ奇怪なものはほかにない。人体や微生物やそのほかの動植物に、さまざまなスケールで起きている。わたしはこの世界を、消化しながら移動する。物質は一方の穴である口から入り、肛門というもう一方の穴から出ていく。そしてそのふたつの穴の間で、身体は処理、分別、排泄という仕事をこなす。

わたしはまた、消化されるためにここにいる。別の人間の体内で細胞から一つひとつつくられ、最後の穴(墓か、火葬炉か、はたまた熊の口か)を通って土に還り、次の胃袋の餌食となるためだけにこの世界に押し出される。なんて旅だ、最高じゃないか。

この星の原始からの代謝システムとともに、またそれに代わって消化運動をするのは、資本主義が過剰に生み出したものを処理する不運な胃袋としての役割以上のことを求めているからだ。消化というものをひとつのツールやメタファーとしてとらえれば、既存のシステムに対する恐れが緩和されるだけでなく、システムそのものを、それまでのかたちではもはや存在しえない状態にまで分解できるようになるはずだ。

サーキュラーエコノミー(循環型経済)の支持者たちのおかげで、地球を第一に考えた消化のアイデアのいくつかが、すでに実用化されている。あるプロセスから排出される廃棄物を別のプロセスに利用するために回収するなど、再利用性を確保するための設計がなされているのだ。

しかしできれば、消化システムは人間の産業と収益を可能にすること以外にも使われるものであってほしい。また、酵素とのコラボレーション、発酵の活用、そして人類は物質世界の頂点ではなく消化管の一部でしかないという知識に対する喜ばしい屈服など、よりクリエイティブでサイケデリックなメタボリズム体験にも興味がある。

メタボリズムは、相互扶助の観点から捉えることができる。いまは本流の医療業界でも広まりつつあるようだが、バイオハッカーたちやアナーキストの過敏性腸炎患者も同様、数年にわたりDIY糞便移植[編注:腸内フローラ移植、FMTとも呼ばれる]を試しているという。彼/彼女らは、お互いの消化機能をよくするために、アドバイスや健康な糞便サンプルを交換し合っているのだ。

そうした行動は、害をもたらすシステムやインフラなどもはや存在すべきではないという結論に至り、それらを代謝し、溶かし去り、場合によっては構成要素をまったく新しい何かに変化させるために団結したコミュニティによる、一種の集団的破壊とも見ることができる。人間中心のプロセス以外では、コンポストや発酵が、栄養豊富で繁殖力の強いマルチスピーシーズ(複数種)の生物によるメタボリズムを促進している。ミミズと微生物と化学反応で生じる熱が野菜くずを分解し、原材料とは似ても似つかない肥沃な土壌をつくり出してくれるのだ。

わたしたちの身体が消化される日が来るのも、そう遠くないかもしれない。その体験がどんなものになるのかはわからないが、想像してみてはどうか。宇宙旅行はいまだ夢物語、シンギュラリティも蜃気楼のよう。だったら、ひんやりとした土に抱かれたまま、ここに留まってはどうだろう。母なる大地の胃に入る堆肥となることからも、学ぶことはたくさんある。

WIRED/Translation by Tomoyo Yanagawa, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)