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Content Subheads

● 遺伝子スクリーニング
生物学主義が補強する価値観
● 出生抑制主義
● 主体的で自己決定的な家族のあり方
● さまざまなリスク

最近、親しい友人から「いつか子どもをもちたいと思っている」という話をされた。養子を考えているのかとわたしが尋ねると、彼は虚を突かれたような顔をして、少しためらう様子を見せてから言った。血のつながった子がいい、と。この答え自体は特にめずらしいものではないし、むしろわたしの質問のほうがおかしいのかもしれない。とはいえ、そのとき見せた一瞬のためらいから、彼がこの質問への答えが一筋縄ではいかないことを感じ取っていることが伝わってきた。

欧米では歴史上、ほとんどの時代において、親は実子を跡継ぎにしたがるのは当たり前のことだった。生物学的な血のつながりこそが、親子関係の根幹をなす唯一不変の絆を表すと信じられてきた。それに、親と子の血がつながっていることは、人が成長し、自己を確立していくうえでの確かな基盤であり、道徳的に望ましいことだともされていた。

生命倫理学者のJ・デイヴィッド・ヴェレマンは、こうした考え方について、自分と親に血のつながりがあることを知っているのは「ほとんどの人が自己を認識し、アイデンティティを形成するうえで拠り所にしている、本質的に望ましいこと」と表現している

レオ・キム

現代のメディア文化の「闇」を追求するライター。『Real Life Mag』『From the Intercom』『MOVIE』に寄稿する。ニューヨーク在住。

だが近年、生物学的なつながりに重きを置くこのような考え方(「biologism(生物学主義)」とも呼ばれる)が揺らぎ始めている。これまでは、もしあなたが子どもを産めば、それだけで遺伝的なつながりがあることは確定していたし、その「生物学的な事実」は子ども自身の存在と分かちがたく結びついていた。

しかしここ数十年で、妊娠代理出産などの方法が登場し、その図式が必ずしも成り立つとは言えなくなってきた。さらに、家族構成の多様化、受精や胚スクリーニング技術の進歩、道徳観の変化なども相まって、「血のつながりは大切だ」という当たり前に思える考え方を見直す流れが強まっている。「単に必要だと思い込んでいたこと」と「実際に実現可能なこと」を区別し始めると、この「当たり前の考え方」を新たな視点から評価しなければならなくなるのだ。

要するに、現代的な倫理基準から言えば、無条件に血のつながりを優先するのは時代遅れの考え方ということになる。古い道徳観が世の中から消え去ったいま、そうした考え方はただの化石にすぎない。事実、そのような「思い込み」を支える論拠の大半は、親子関係や家族、文化における人間の生物学的な側面をめぐる進歩的な考え方とは、真っ向から対立している。

遺伝子スクリーニング

また、生物学主義に関する根本的な問いは、「生まれてくる子どもの遺伝的特徴を考慮したうえで、親になるかどうか判断することは許されるのか」というものだ。胚の遺伝子をスクリーニングする技術の進歩や、生殖補助医療の発展により、これから親になろうとする人は、数百もの形質という観点から胚を評価することが可能になった。それによって、かつて国家主導の優生思想によってもたらされた危険、つまり「子をつくるかどうかを決断する際に生物学的な見地から考慮を加えることの危うさ」と再び向き合わざるをえなくなっている。

確かに、スクリーニングの対象となる遺伝子疾患の多くは命にかかわるものだが、いまでは難聴や小人症といったものにまで検査の対象が広がっている(実現するかはわからないものの、IQや身長などの特徴について調べたいというニーズも確実に存在する)。こうしたことはすべて、子どもをもつかを判断する際に、生物学の知見をどのように、またどの程度まで介入させるべきかというやっかいな問題を、いっそう緊張感のあるものにしている。なぜなら、そうした要素を考慮することで、将来的になんらかの影響がもたらされるのは間違いないからだ。

いくつかの基礎となる考え方はすでに固まっている。簡単に言えば、子どもをもつにあたって生物学的な要素を考慮に入れることが許されるのは「害や苦痛を取り除く場合のみ」というコンセンサスが存在するのだ。ローラ・ハーチャーが『MITテクノロジーレビュー』で述べたように「世論は、生殖補助医療技術の使用に関して、(生まれてくる子どもの)病気を防ぐことと、遺伝的特徴を選ぶことの間に明確な一線を引いている」

ジョンズ・ホプキンス大学の遺伝学・公共政策センターが実施したものをはじめとする複数の調査によって、こうした感覚が世間で広く共有されていることが示唆されている。この許される最小限の範囲を少しでも超えた瞬間、わたしたちは過去の優生学者たちが踏み固めた、遺伝子を盲目的に崇拝し、その最適化を目論むというゆがんだ道に足を踏み入れることになる。

生物学主義が補強する価値観

さて、いまの話を前提として受け入れたとき、争点になるのは「遺伝的来歴、すなわち親との生物学的類似性は、子どもの苦痛を防ぐことにつながるのか」ということだ。だが当然、この理屈を正当化するのは難しい。子どもに血のつながりを求めることで、どのような問題を回避できるのかがよくわからないからだ。

生物学的な実子であるという事実は、その子の人生の幸福とはほとんど無関係に思える。テイ=サックス病やハンチントン病といった、スクリーニングが許容される遺伝疾患などと比較した場合は特にそうだ。この観点から見ると、血のつながりを重視することは、命にかかわる変性神経疾患の危険性を放置してでも高身長の遺伝子を選ぶような、恣意的な選択に思えてくる。

生物学主義の支持者たちは、「血のつながりこそが、人生の幸福に不可欠な親子の強い絆を築くのだ」と主張するかもしれない。ヴェレマンのように、親と似ているという事実が子どものアイデンティティを形成し、人生全体の幸福度に影響を及ぼすと言う者もいる。だが、この主張は根拠の薄いものに思える。なぜなら、養子として育てられた人たちを対象にした研究で、親との遺伝的なつながりや「母親のお腹から生まれたこと」ではなく、「親にどのように育てられたか」のほうが人格形成に強く影響することが明らかになっているからだ。

子どもが自己を確立するうえで、家族との類似性がプラスに働くのは確かだが、倫理学者のティナ・ルッリに言わせると「養父母との類似性」でも同じ効果が得られるという。さらにルッリは、母と子の絆における最も大切な部分は「お腹を痛めて産んだ」という事実ではないと指摘したうえで、「乳幼児のときに養子縁組が行なわれた場合、母と子のアタッチメント(精神的な絆)はただちに形成され、質という面で(実子の場合と)なんら遜色はない」と述べている。要は、自己の確立にせよ、親子間の絆の醸成にせよ、血のつながりが必ずしも必要とは言い切れないのだ。

むしろ生物学主義は、わたしたちが明確に否定しようとしている価値観を強めてしまう。遺伝的類似性を倫理基準として過大評価することは、国や民族、文化、人種の枠を超えて子どもに対する責任をもち、配慮を行き届かせたいという願望と逆行している。つまり、家族という概念を一面的に捉え、固定することで、そうした狭量な枠組みを強固なものにしてしまうのだ。

これと同じ理由から、ハネ・トゥット・マウンなど一部の生命倫理学者は、生殖補助医療を用いて配偶子を選別する際に、人種的同一性を重視することを認めるべきだという意見に反対している。こうしたやり方は、「人種的特徴に基づいた類似性に過度に重きを置く、家族という概念の偏った解釈」を生きながらえさせるだけだ、と。

生物学的類似性を親子関係の基盤にすれば、両親は無条件に子どもを愛すべきであるという考え方は成り立たなくなるうえ、学者のロザリンド・マクドゥーガルが唱える「親による受容の美徳」も損なわれてしまう。

出生抑制主義

さらに、遺伝的結びつきは「自然なもの」であり、それ自体が本質的な価値をもつという主張には大きな危険がある。なぜならこの理屈のために、過去数十年にわたり、同性のカップルは親としてふさわしくないと言われ続けてきたからだ。

また、「自然さ」を論拠とする主張は、生命倫理学者のエツィオ・ディ・ヌッチが「家父長的偏見」と呼ぶ考えにもつながる。これは、その子どもを産んだ母親が主に子育てをするのが当然かつ「自然」なことだ、という考え方だ。

何が「自然」で何が「不自然」かをめぐる言説については、つねに警戒心をもって注視する必要がある。例えば、ヒマラヤに住むナ族という部族には、「生物学的な父親」という社会的な立場が存在しないことが民族学の研究で明らかになっている。つまり、わたしたちが当然だと思っている「父」という概念ですら、生物学的に必須のものではないということだ。

親としての役割を果たすという社会的な現象と、生物学的な現象が混同することは、人類が求める新たな倫理を遠ざけることにほかならない。柔軟かつ包括的な価値観ではなく、時代遅れの家族観が強固なものになってしまうのだ。

生物学主義に与しないことには、より現実的で功利的なメリットもある。血のつながった子どもを求めることは、つまるところ養子縁組成立の可能性を下げ、問題のある環境に置かれている子どもたちからリソースを奪うことにつながるからだ。世間では、養子候補の子どもが「不足」しているとよく言われるが(なんと50年以上も前からそう言われ続けている)、実際には養親のほうが足りていない。このような状況をふまえると、養子縁組を妨げるような考えは慎むべきだといえる。血のつながりを盲目的に重視することは、実現可能かつ道徳的に好ましい選択肢を除外してしまうという点で、極めて問題なのだ。

生物学主義に反対する主張のなかで最も過激なのは、おそらく「出生抑制主義(anti-natalist)」だろう。出生抑制主義者たちは、「人間は可能な限り養子を取るべきであり、子どもを産むのはモラルに反する行為だ」と主張する。哲学者のデイヴィッド・ベネターなどは、この立場から多くの意見を発信している。

「人生というものはほぼ例外なく、よいことよりも悪いことのほうが多く(「最高の経験から得る喜びよりも、最悪の経験から得る苦痛のほうを大きく感じる」という「経験の非対称性」を考慮すると特にそう言える)、また人類は地球環境に深刻な損害を与えているので、この世界には人間などいないほうがいいと考えられる」と彼は述べる。こうした理由から、出生抑制主義者たちは、新たな命を生み出すことは間違いであり、血のつながった子どもを望むことも必然的に誤っていると結論づける。

多くの人は、この考え方を知ってショックを受けるだろう。しかし現在、未来への見通しが暗くなっていくなかで、一定数の人々がこの理屈を受け入れ始めている。例えば、気候変動問題への不安から、これからの世代が受け継ぐ世界がいかにひどいものかを危惧する声が挙がり、「けっして住みやすいとは言えない」というコンセンサスが形成されている。

その一方で、米国政府はソーシャル・セーフティ・ネットを骨抜きにするような政策を続けているため、国民にとって子どもをもつことは経済的に困難になりつつある。現在の子どもたちが大人になるころには、貧困問題はいっそう深刻化するだろう。以上をふまえると、これから生まれてくる子どもたちにとって、世界はいっそう厳しいものになると考えられる。だからこそ、一部の人々は行動を変え始めているのだ。

そして、生物学主義への反論になるかはわからないが、出生抑制主義的な感情の高まりによって、子どもとの関係性はすでに分岐点を超えたところまで来ている。ある31歳の女性は、研究者に対してこう語った。「わたしが子どもをつくらないと決めた理由は、気候変動です。この滅びゆく世界に子どもを産みたくないんです」

主体的で自己決定的な家族のあり方

生物学主義が常識であるという前提が崩れるにつれて、家族や親子関係へのかかわり方は必然的に変わっていくだろう。養子縁組は、子どもを望む人にとっての当然の選択肢になっていくのではないか。

現状、養子を迎える費用は高く、偏見も多く、場合によっては搾取が起こりうる業界ではあるが、まもなく光が当たり、状況が改善される可能性は大いにある(需要の増加によって負の側面が助長されるという見方もできるが)。あるいは、血のつながった子どもだけを望んでいた人たちが、親になるという自身の願望をもう一度見つめ直すようになり、結果的に出生率が低下していくかもしれない。

いずれにしても、長い目で見たときに、伝統的な価値観に縛られない、非核家族的な家族構造──「自然な」血縁関係という固定観念にとらわれない、より主体的で自己決定的な家族のあり方──が広く受け入れられるようになってほしい。

また、遺伝的なつながりを必要以上に重視しなくなれば、家族という単位をはるかに超えたところまで影響が及ぶかもしれない。遺伝的来歴は長い間、白人優位の社会を築き、維持するためのツールとして使われてきた。純血性の理論を軸に、「白人性」なる概念を打ち立てた「ワンドロップ・ルール」が残した負の遺産がその例だ。子どもに血のつながりを求めることは、遺伝的来歴に対する、人種という側面からの偏った執着をさまざまな形で正当化しかねない。

だが一方で、社会学者のドロシー・ロバーツは次のように述べる。「黒人は自らのアイデンティティについて考えるときに、白人ほど遺伝的な特徴の共有を重視しないようです。人種的な純血性という概念は、黒人たちにとってはあまりなじみのないものなのです」

家族関係のなかで血のつながりが重視されなくなれば、白人至上主義に組み込まれた「遺伝子こそが本質である」という考え方が疑問視されるかもしれない。さらに、生物学的な要素を社会的関係の基盤にするという有害な考え方が否定される可能性もあるだろう。

さまざまなリスク

とはいえ、「反生物学主義」にもさまざまなリスクが伴う。例えば、生殖補助医療の使用を求める同性同士のカップルのようなマイノリティへの攻撃手段として悪用されてもおかしくはない。生命倫理学者のティモシー・マーフィーは、「異性のカップルがもつ生物学主義的な思想の土台をなす、社会に深く埋め込まれた慣習こそ批判の対象とすべきだ」と語る。

さらにわたしたちは、奴隷制をはじめとするかつての社会制度によって、生物学的な関係の正当性が否定されてきたという事実をもっと意識すべきだろう。例えば、DNAをさかのぼって自分の祖先を探し出すといった方法で、格差や溝を乗り越えようとしている人はおそらく多い。反生物学主義の悪用によって、そうした人々の願いがないがしろにされてはならない。

新たな倫理を形成する際は、政治的、歴史的な証拠をもとに、それが正しい方向に向かっているかを常に考える必要がある。なぜなら倫理には、悪意をもって間違った使い方をされるリスクがつきまとうからだ。

このように、さまざまな懸念はあるにしても、これまで主流とされてきた遺伝子や血縁に偏重した考え方は変わりつつある。主な理由は、いまの道徳観とのギャップがあまりに大きくなったせいだ。現在の価値観に照らして考えると、従来の考え方を修正せざるをえなくなったということだ。人類が今後も子どもを産み続けるのは間違いないだろうが、その決断を下すにあたって、血のつながりという要素はそこまで重視されなくなっていくと思われる。

「血のつながった子ども以外は欲しくない」という主張は、より広い価値観を許容する現代の倫理に反する、狭量で閉鎖的な考え方だと見なされるようになる。生物学的な己の分身を残したいというスケールの小さな願いではなく、より大きな理由によって、親になるという決断がなされていくはずだ。

いずれわたしたちは、親子関係というものの本当の意味を理解するだろう。親子関係とは、自分の遺伝子を残したいという原始的かつ機械的な欲求ではなく、愛と思いやり、すなわち広い愛情と深い献身によってかたちづくられるものだ。そしてそれこそが、わたしたちを人間たらしめているものなのだ。

WIRED/Translation by Hirotaka Inoue, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)