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12月8日(金)開催

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Content Subheads

●「睡眠衛生の話はしないでほしい」
● アプリで眠ることに成功
● 典型的なダブルバインド
● テクノロジーによる治癒

ここ数カ月、わたしは毎晩テリという女性(または彼女に似た人物)の話を聞きながら眠りについている。夜中の12時ごろにベッドに入り、携帯電話で健康管理アプリを開いて「sleep hypnosis(睡眠催眠)」の項目をタップし、何百ものトラックのなかから適当なものを選ぶ。そして携帯電話を伏せて枕の上、自分の頭のすぐ横に置き、聞こえてくる声に集中するのだ。再生が終わる前に寝入ってしまうこともしばしばで、ここ数年でいちばんよく眠れている。

わたしはテリが誰だか知らない。その略歴は「催眠療法とNLPのトレーナー」となっている。少し調べたところ、NLPとはNeuro Linguistic Programming(神経言語プログラミング)の略で、ライフコーチングと呪術的思考の中間に位置する、疑似科学的催眠指導法であるらしい。

エルヴィア・ウィルク

小説『Oval』、エッセイ集『Death by Landscape』の著者。彼女の作品は『The New York Review of Books』『The Nation』『The Atlantic』『n+1』『The Paris Review online』などで言及されている。

わたしは日によって「公認心理療法士兼瞑想指導者」のドロシーや、「ニューロマインドフルネス・コーチ」のアナイスを選ぶこともある。これらの手法に不眠症治療の効果があるという科学的な証拠はほとんど目にしたことがない。音楽は安っぽく(たいていはチャイムや静かな雨音が背後で流れている)、お決まりの文言をささやく声は、日中に聞けばばかばかしく思うだろう。

だが、かまわない。このアプリには効果がある。肉体をもたない声たちは、昼から夜へ、言語から沈黙へ、社交から孤独へと移行するのにどうしても必要な時間を提供してくれるのだ。なかでもいちばん重要なのは、テクノロジーにどっぷりつかったまま眠りへと誘ってくれることだろう。ここでの皮肉は、眠りへと誘ってくれるのが携帯電話だということだ。

わたしは、デジタルの世界を離れて休息をとらなければいけないまさにその瞬間に、ますますデジタルの世界と結びつくようになったのだ。これはおそらく「平穏を見つけるには、それを達成するための努力を手放さなければならない」という偉大な瞑想指導者たちの言に対する見事なパラドックスである。

「睡眠衛生の話はしないでほしい」

どんな医者でも、どんなウェブサイトでも、通りを行き交うどんな人でも、眠れない夜に最初にやるべき対策は、心を落ち着かせる夜の習慣を身につけることだと言うだろう。専門用語で言うところの「睡眠衛生(sleep hygiene)」である。睡眠衛生の主なルールは、就寝時間と起床時間を遵守すること、就寝前のカフェイン、アルコール、食べ物を控えること、夜間はあらゆるスクリーンを遠ざけること、などである。

「衛生」という言葉は多くのことを物語っている。こうしたルールの前身が、ヴィクトリア朝時代に清教徒的対応の一環として生まれたのは偶然ではない。その時代、日常生活に電信、ラジオ、電灯など、“不自然な”技術が入り込んできたせいで、上流階級に不眠症が「蔓延した」とされたのだ。

それから1世紀半を経て、睡眠を妨害するテクノロジーは、便利で、厄介で、多くの人を夢中にさせる手の平サイズの物体に統合された。それは、新たな情報をついついチェックしてしまう物体であり、雇用主や愛する人々(いまでは催眠術師も)の声をわたしの耳に届ける物体であり、通りを歩きながらコートのポケットに手を入れていじる物体であり、夜10時に電源を落とすのがほぼ不可能な物体である。

わたしは昔から寝つきが悪く、ここ数年は特にひどくなっていた。睡眠研究をはじめ、さまざまな治療や薬といった従来の解決策を模索し、食生活を変え、疲れ果てるまで運動し、メラトニングミを何粒も噛んだ。しかしわたしの経験では、睡眠の医師もウェルネスの第一人者たちも、とりわけスクリーンを避けることの有効性にこだわった。そこから得たメッセージは、わたしが疲労困憊し、眠ることのできない社会的、経済的、政治的要因はすべて、スクリーンへのアプローチを厳格にすることで改善できるということだった。

彼/彼女らはこう急き立てる。電話を箱の中へしまえ。ほかのアプリをシャットダウンするアプリをインストールしろ。自動返信メールを作成しろ。境界線を設定しろ。自制心を鍛えろ!

真正の不眠症患者にとって、こうしたヒントやコツは残酷な冗談に聞こえるかもしれない。Redditのなかの「r/insomnia」というサブレディット(特定のスレッド)に次のような書き込みがある。「普通の人たちが、ひと眠りするために携帯電話を別の部屋に置いて、20分間読書をして、コーヒーは絶対に飲まず、加湿器を使って、静かな音楽を20分間聴いて、熱いお風呂に入って、午後8時以降はスクリーンを見ないようにしていると思う? 睡眠衛生を説く奴なんてくそくらえだ」「不眠症。重度。睡眠衛生の話はしないでほしい。切羽詰まっているので」

夜間に光を浴びすぎることや、いわゆる「スマホ首」など、(電子機器への)接続が健康に及ぼす影響に関してよく口にされる懸念のほかにも、そこにはヴィクトリア朝時代のブルジョアたちが陥ったモラル・パニック、つまり「自然なもの」に対する根深い文化的不安の残滓があることをわたしは発見した。携帯電話は、わたしたちに己の性質に反して生きることを強要する人工物だという考え方はいまなお健在だ──あたかも純粋で、混じりけのない、テクノロジーとは無縁のものが存在するとでもいうように。

わたしは、スクリーンの束縛から逃れさえすれば、自分を取り戻すことができると信じ込まされてきた。そうすれば、自分の身体と向きあい、ペースを落とし、休むことができるのだと。

アプリで眠ることに成功

テクノロジーと不眠の関係は、卵が先か鶏が先か問題を引き起こす。スクロールをすればするほど──ブルーライトが網膜神経節細胞を活性化して脳に昼間であるというシグナルを伝達するので──寝つきが悪くなり、寝つきが悪くなるほど、漠然とスクロールを続けてしまう。

わたしが先ほど説明した睡眠催眠アプリのターゲット広告(年間59.99ドル(約9,000円)のサブスクリプションサービス)に出くわしたのは、いまから半年ほど前、ゾンビのように延々と画面をスクロールしていたときだった。わたしはこれまで何年にもわたってこうした自己啓発アプリの餌食になっており──朝の4時に画面をスクロールしている人間が流されやすいことをアルゴリズムは知っているのだ──今回もとくに期待はしていなかった。

ところが、だ。ジェイソンという名前を選んで再生し、自分が温かい水の上に浮かんでいるところを想像してみてください、というありきたりな指示に耳を傾けたわずか数分後に眠りに落ちていたときのわたしの驚きを想像してみてほしい。翌朝目覚めると、わたしは携帯電話を握りしめたままだった。

それから数週間続けてアプリで眠ることに成功すると(不眠症が治ったわけではないが、効果の差は歴然だった)、わたしが待ち望んでいた特効薬はコレだったのだと思った。とはいえ、これまでこうした催眠術を試したことはなかっただろうか? 試してみて無意味だと思ったことは? 果たして、このアプリの音声に本当に催眠効果があるのだろうか?

わたしはずいぶん前から、一日の終わりに瞑想やウェルネスのアプリを使ってリラックスしようと試みてきたが、効果はなかった。というのも睡眠衛生の専門家がこうしたアプリを勧めるのは夕方の早い時間帯なのだ。理由は、そう、ベッドに携帯電話を持ち込むのは身体によくないからだ。

わたしにとって、この音声コンテンツは確かに心を落ち着かせてくれるものだが、流れてくる音声は、本来の機能のおまけにすぎないのではないかと思い始めている。これが効果を発揮する理由はもう少し複雑なものだろう。なぜなら、このアプリがあらわにしているのは、わたしとスクリーンとの関係性であり──メールに返信したりフィードを更新したりしないときでも千々に乱れ、過度の刺激を受けているわたしの心の状態であるからだ。

携帯電話をベッドに持ち込んで別の用途に利用することで、わたしは強制的に接続を切らなければいけないという負担、テクノロジーの利用を自制するという負担から解放されるのだ。

典型的なダブルバインド

このアプリ──数多のアプリによってわたしに刻み込まれた過覚醒状態に対抗すべく設計されたこのアプリ──は、テクノロジー依存の典型的なダブルバインドを端的に表している。わたしはこれまで、あらゆる技術的な問題はテックソリューションによって改善できるという、いわゆる「そのためのアプリ(app-for-that)」的な考え方、大きな社会構造にまで飛躍するような姿勢に抵抗してきた。

しかし今回の場合、アプリの品質そのものが恣意的に見える。設計や内容はピンとくるような素晴らしいものではないし、技術も画期的なものではない。このアプリの本当の機能は、わたしに催眠をかけることではなく、携帯電話を、そしてわたし自身をマナーモードから解放してくれることなのだ。無理に境界線を設ける必要はない。ただ、携帯電話を大事なぬいぐるみやお守りのように、普通に寝室に、ベッドの中に持ち込めばいいのだ。

「気を散らすものはすべて遠ざけてください」と、目を閉じたわたしにテリが指示する。ただし、アプリの音声はダウンロードができないため、彼女の声を聴くには携帯電話をネットにつなげておく必要がある。そうなると必然的に、目が覚めたときにはいくつものメッセージを受け取ることになる。

スイッチを切る、電源を落とす、プラグを抜くなど、睡眠にまつわる多くの比喩はテクノロジーに関連している。まるでわたしたちが、接続性との関連性がない、あるいはそれに反する休息など想像できないかのように。しかしこのつながりを断ち切ることにこだわれば、ますます疲弊するだけだ。わたしはつねに努力しているが、電話との間に境界線を設け、けじめをつけるには、いま以上の労力がいるだろう。

このデバイスがわたしの体内でドーパミンを放出するよう設計されていることは承知しているし、脳がそれに反応するのは厳密にはわたしのせいではないこともわかっている。また、わたしたち自身を労わるための、あるいはお互いを思いやるための社会的なサポートが少ないせいで、個々の健康が自己責任という枠組みに押し込まれていることも知っている。

わたしは、少なくとも文字どおり意識がない間は、コンテンツや製品の消費者、つまりWi-Fiとつながった状態から離れていたいとずっと願ってきた。だが、こうした構造的問題に対するわたしの認識だけでは、肉体を制御する助けにはならなかった。わたしの神経系は何十年にもわたるクリックやタップによって根本的に、そしておそらくは不可逆的に変化してしまっているのだ。

テクノロジーによる治癒

ネットワーク化されたテクノロジーと不眠症との因果関係は、多くの文章に記され、理論化されている。おそらく21世紀の疲労についての考察で、最も有名かつ鋭い指摘をしているのは、2014年に出版されたジョナサン・クレーリーの『24/7:眠らない社会』[編注:邦訳は2015年]だろう。本書は、現代生活の“常時つながっている状態”について詳しく論じている。ただしその要点は、単にテクノロジーがわたしたちの休息能力をダメにしたということではなく、わたしたちが疲弊しているのは、そうしたテクノロジーに依存し、人びとに強制的に使用させるような状況を生みだした社会や経済システムにあるという点だ。

つまり、休むことが特権になってしまったのだ。19世紀の真の問題が、電灯ではなく、急速な工業化、植民地主義、階級・階層化にあったのと同じく、現代の問題は携帯電話にあるのではない。問題は、わたしが不安定な労働者で、仕事をやめられない、やめる余裕がないことにある。そういう意味で、電話は危険な気晴らしだ。まさに気晴らしを、気をそらすために設計されているのだから。

わたしは短期的かつ小さな範囲で、携帯電話を毒にも治療にもなる薬(ファルマコン)として渋々ながら受け入れている。携帯電話に関連する数々の妥協は、言うなれば断酒ではなく実害を減らすこと、つまり完全な禁酒ではないが、自分に問題があることを認めつつ状況を冷静に評価することが求められるアプローチだと言っていい。

不眠症は、ほかのメンタルヘルス問題と同じく、完全に個人的なものであると同時に、極めて社会政治的なものでもある。わたしの脳は寝つきが悪くなるよう配線されており(これもテクノロジー関連の比喩だ!)、わたしのこの状態が、状況を耐えがたいものにしていることは間違いない。

日常生活のなかでこうした「テクノロジーによる治癒」と闘うのはエネルギーの無駄である。携帯電話の使用を制限したり、携帯を使わないようにしたりしても効果はない。それよりもわたしは、来るべきテクノディストピアに抗うエネルギーを蓄えておくには、質のいい睡眠が必要だと毎晩自分に言い聞かせている。

WIRED/Translation by Eriko Katagiri, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)