Content Subheads

● 世界中で70万人近く
● いまだに世界全体のわずか15%

HPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチンは、医療の奇跡と言っても過言ではないだろう。

ロンドン大学衛生熱帯医学大学院でワクチン疫学を研究するマーク・ジット教授は、同ワクチンについて「与え続けられる贈り物のようなもの」と表現する。子宮頸がんを予防できる唯一のワクチンというだけでなく、「時間の経過とともに、より優れたワクチンであることがわかってきた」とジットは言う。

2010年代半ばに開発され提供が始まって以来、子宮頸がんの発生率を劇的に低下させたHPVワクチンの効力には目を見張るものがある。英国では11年間で、ワクチンを接種した人が子宮頸がんにかかった率は、接種しなかった人に比べて87%減少した。いつの日か、このがんそのものを効果的に根絶できるかもしれない。

グレース・ブラウン

『WIRED』のスタッフライターとしてヘルス分野を担当。以前は『New Scientist』『BBC Future』『Undark』『OneZero』『Hakai』などの記事を執筆していた。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンとインペリアル・カレッジ・ロンドンを卒業。

また、このワクチンが予防できるのは子宮頸がんだけではない。頭頸部がん、膣がん、肛門がん、陰茎がん、そして性別に関係なく尖形コンジローマにも効果がある。しかし、問題がひとつある。男性と女性のどちらにも発症する恐れがあるがんを予防できるにもかかわらず、このワクチンが提供されている国のうち3分の2が、男児や成人男性への接種を行なっていないのだ。そうした地域では、ワクチンの恩恵を受けられるはずの人の半数が、命が救われるかもしれない予防のチャンスを逃している。ただし、この現状は変わってきている。

HPVワクチンが普及しはじめた当初は価格が高額だったため、最もリスクの高いグループ、つまり9歳から14歳の女児を接種対象としたのは妥当だったとジットは言う。しかし、ここ10年ほどでワクチンの価格は大幅に値下がりした。同時に、HPVワクチンの接種を男女の区別なく推奨することの有益性が研究・調査により続々と示されている。「社会正義と社会的平等の観点からすれば、男女両方がワクチンを接種するのは理に適っています」と、英国のバース大学数理生物学者、キット・イェーツは言う。そうしなければ男性は常にリスクに晒されることになり、負担を分け合うどころか、男性をHPVから守る責任を女性に負わせることになる。

近年、ワクチンの普及拡大の妨げとなっているのは、供給量の不均衡である。接種対象者の枠が拡がったことで需要が急増したためだ。ワクチンメーカーは製造が追いつかず、それにより大規模な逼迫が生じ、多くの低所得国が供給不足に陥っていた。しかし、ここへきて供給が再び増加しはじめている。22年、世界最大のワクチン製造国であるインドが、国産のHPVワクチンの販売を開始したのだ。

新たな研究では、1回の接種で十分な予防効果が得られることもわかっている。それはつまり、これまでひとり当たり2回の接種が必要だったワクチンの量を半減でき、国内の接種対象者数を倍に増やせるということだ。ジットは「これで、ほかにも予防接種が必要なグループがいないかということを考え始められます」と話す。

世界中で70万人近く

ヒトパピローマウイルス(HPV)は、誰でも感染する可能性のある一般的な性感染症だ。80〜90%の人が生涯で一度は感染するとされるが、主な経路は皮膚と皮膚の接触によるものだ。いまこの記事を読んでいるあなたも、まだ感染していなくとも、いずれ感染するだろう。幸い、ほとんどの人は感染しても影響が出ないといわれ、一生無症状で過ごすことができる。

しかし、ごく一部の保菌者にとっては、HPVは重篤ながんに発展する可能性を秘めている。HPVには約200種類の型があり、そのうちがんの原因となる型は数十種。体内に侵入し細胞に潜り込んで、自身のコピーをつくり出すことでがん化する。ほとんどのウイルスは感染しても定着せず1、2年で自然に体内から排除されるが、一部は感染状態が長く続いて正常な細胞に異形成を起こし、放っておくとがんを発症する恐れがある。

毎年、HPV関連のがんと診断される人は、世界中で70万人近いと推定される。その大半は子宮頸がんで、年間約34万人が死亡しているという。子宮頸がんは、女性がかかるがんのなかで4番目に多く、そのほぼすべてにおいての原因はHPVだ。しかし、HPV関連のがん患者のうち4分の1以上は男性である。

歴史的に見ても、HPV感染は「女性の問題」とみなされてきた。それについて学者たちは、「HPVの女性化」と表現している。これは、「異性間パートナーシップにおけるリプロダクティブ・ヘルスケア[編註:性と生殖に関する健康の維持管理]の責任は女性にある」という考えに固執するものであり、女性に対してHPVを保有し男性に感染させているという汚名を着せるようなものだと論じられている。HPVワクチンの最初の臨床試験は女性に対してだけ実施され、その後のマーケティングも母親と若い女性がターゲットだった。

しかし、最近医学雑誌『ランセット』に掲載された論文で、性器HPV感染症の患者が男性にどの程度いるかを把握するため、既存の研究の分析が行なわれた。女性に対しては常に統計がとられているものの、これまで男性に対してはあまり調査されてこなかった。研究者らは、男性のほぼ3人に1人がHPVのキャリアであることを突き止め、男性はHPVを保菌し、彼ら自身のみならずセックスする相手にもリスクをもたらしていると結論付けた。

また、男性に多いとされる種類のがんが、発見される頻度は女性よりも低いことがわかった。女性に対しては子宮頸がんを見つけるための細胞診検査を盛んに呼びかける一方で、陰茎がん、頭頸部がん、肛門がんに対する定期的なスクリーニング検査は存在しない。これらのがんは、深刻な問題になりつつある。ここ数十年で急増した喉のがんは、エピデミック(大流行)の域に達しているといわれているのだ(これは、オーラルセックスをする人が増えたことに起因している)。米国内では、HPV由来の頭頸部がんの症例数が子宮頸がんを上回り、HPV関連がんのなかで最も多くなっている。

経済的観点から女児にだけHPVワクチンを接種することの論拠は、(女児のワクチン接種による)集団免疫を通じて男性は自ずと恩恵を得るだろうという考えに基づいている。しかしこの根拠は、異性愛規範の視点でしか意味をなさない。男性と性交渉を持つ男性は、女性のみを対象としたワクチンキャンペーンから得られる利益はあまりなく、そうしたグループはHPV感染のリスクが高いことがすでに示されている。確かに、女性へのワクチン接種は男性のHPV感染を減らすことにもつながるが、実は「初期の想定のように異性間関係だけを念頭に置いているのであれば、その恩恵というのは幾分誇張されている」とイェーツは話す。

いまだに世界全体のわずか15%

国際的な保険機関は、依然として女性に限定して接種の呼びかけを行なっている。世界保険機構(WHO)が推奨する接種スケジュールは、90%以上の女児が15歳までにワクチンを受けられるようにすることを第一目標としたものだ。WHOはその理由を、低・中所得国にとっては、女性に焦点を当てたワクチンキャンペーンが最も費用対効果が高いためと説明している。

しかし、一部の国は研究結果を留意し、自国のワクチン接種推進活動の対象に男児を含めるようになった。13年、オーストラリアは世界に先駆けて男児への接種を開始し、英国、ニュージーランド、アルゼンチン、アイルランド、カナダなど、ほかの複数の国がこれに続いている。

一方で、HPVワクチンを誰に打つかということは、問題の一部に過ぎない。ワクチンに不信感やためらいを抱く傾向が、接種率の低迷を招いているのだ。長年のデータでワクチンの安全性が示されているにもかかわらず接種率が伸びない背景には、副反応への恐れがある。21年に発表された論文によると、15年から18年のあいだに、安全性への懸念から子どもにワクチンを受けさせないことを選択した親が米国で80%近く増加した。

また、ワクチン自体は否定しない親たちのあいだでも、「ワクチンを打ったから大丈夫」とばかりに性的に活発になることへの不安から、子どもの接種に強い抵抗感をもつ人は多い。HPVワクチンは、性交渉の経験をもつ前に接種するのが最も効果的であるため、接種キャンペーンは通常11〜12歳を対象としている(研究によれば、ワクチン接種で子どもたちが性行為に及ぶ可能性が高まることはない)。21年に行なわれた別の調査では、ワクチン接種対象年齢に相当する女児のうち完全に予防できているのは世界全体のわずか15%で、男児に至ってはたったの4%しかいないという。

世界的な普及状況は、均等とは言い難い。米国や英国などの国々で接種率が停滞する一方で、低所得国では増加し続けているという。それでも、WHOが掲げる対象女児接種率90%の目標達成に向けた全体的な歩みはゆっくりとしたものだ。ジットは、WHOは目標をさらに高く設定した長期的な計画を打ち立てることが重要だと考えている。彼はこれまで同僚たちとともに、人類が唯一根絶できた病である天然痘に対して世界が行なったことと同じアプローチをとるべきだと主張してきた。これは、十分な数の人が天然痘のワクチンを接種すれば、やがてウイルスは消滅するだろうというものだ。天然痘は、大規模予防接種活動の努力の末、1980年に正式に根絶が実現している。

ジットは「それこそが、わたしたちが最終的に目指すべきゴールです。ワクチンを永遠に打ち続けることではありません」と話す。「ウイルスはもう存在しないのだから二度とワクチンを打つ必要はないのだ、というところまで持っていくのです」

WIRED/Translation by Tomoyo Yanagawa, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)