赤いリムジンバスは「ロンドンらしい」のか? 都市の「オーセンティシティ」にまつわる諸研究とその指標化

観光や都市の領域において重要性が増している「ローカル(地域性)」と「オーセンティシティ(本物感)」。しかし、その本質とは何なのだろう? ジェントリフィケーションにより失われた「何か」の仮託先として、めでたく選抜されたオーセンティシティが具体的なアクションを誘発することはできるのか。オーセンティシティの3分類とその指標化についてPlacy鈴木綜真が考える。
赤いリムジンバスは「ロンドンらしい」のか? 都市の「オーセンティシティ」にまつわる諸研究とその指標化
英国の西北部に位置するランカシャー州の海岸沿いの街、モアカム。観光社会学者ジョン・アーリは著書『観光のまなざし』のなかで、モーカムを「骨の髄まで真のヨークシャ」と表現したデイリー・テレグラフ紙を参照している。オーセンティシティによる街のブランディングとしての例である。

観光において重要度が増す「ローカル」と「オーセンティシティ

「都市のオーセンティシティ」。この空間指標について堀り始めたキッカケは、JNEA(Japan Nighttime Economy Association)と「オーセンティシティ」の解読(Decode)について議論をしたことだった。JNEAは観光庁との共同プロジェクトのなかで、都市におけるミュージックヴェニューの価値を調査する「Creative Footprint(以下、CFP)」(Carbon Footprintとかけていることに気付くのにはなぜか時間がかかった)という調査レポートを発行しており、その巻頭(p.7)「観光と文化とまちづくり」のなかで、都市におけるオーセンティシティの重要性を説いている。

米・欧・日本はもとより、中国でも団体旅行から個人旅行へのシフトが顕著である。このようなトレンドのなかで重要性を増しているキーワードが、“ローカル(地域性)”と“オーセンティシティ(本物感)”である。旅行者のまなざしは、既存の旅行商品ラインナップだけではなく数多くの選択肢に向けられる。選択肢がグローバルに広がるほど、その地域固有の魅力が都市体験を差別化する要素として際立ってくる。

2020年4月に公開されたCFPにおいては、専門家へのインタヴューを通して各都市の定性評価が行なわれたが、これに続く、より定量的な手法も含めた調査をすることも検討しているようだ。

インターネット時代の「場所」のゆくえ

「オーセンティシティ」には「ゲニウス・ロキ(genius loci)」「センス・オブ・プレイス」「プレイスネス」などさまざまな呼称の同胞がいるが、興味深いのは、このトピックに対する関心の高まりである。

IMAGE BY SOMA SUZUKI

1976年に出版された『場所の現象学』により、イーフー・トゥアンと並んで、Place Researchの権威と呼ばれるエドワード・レルフは、自身のブログサイト「PLACENESS, PLACE, PLACELESSNESS」にて、「センス・オブ・プレイス」に関連する査読が行なわれた出版物の数の遷移を共有している。

マスツーリズムへの警鐘として1960年代にスタートを切った「オーセンティシティ」研究。目を引くのは、インターネット黎明期の1990年代に「爆発的」に、そのリサーチ数が伸びていることである。この数字は、いささか直感に反すると感じる方も多いだろう。それは、インターネットの台頭により「場所がわたしたちの生活に及ぼす影響」は下がっていくように感じられるからである。

しかし実際のところは、インターネット空間に生活基盤の一部が移行するなかで、フィジカル空間に残された価値を問うリサーチが多く生まれた。そして、これは今回の新型コロナウイルス感染症によって、さらに加速することは間違いないと考えてよいだろう。また、アカデミック領域だけでなく、プレイス・ブランディングをはじめ、ビジネス分野での注目も集まっている(近年、多くの“名高い”企業がプレイス・ブランディングには参加している)。

余談だが、時間に余裕のある方は、レルフのブログサイトにも直接訪れて目を通してみてほしい。70年代からの「場所の権威」(引用数を参照するのも何か品がないように感じるが、『場所の現象学』の引用数は10,000回を超えている)が、電子メディアが台頭したなかでの場所の役割、コロナ禍後の場所の未来など、時代に沿って彼のアイデアをアップデートし言葉で書き起こしているものを無料で読むことができる。

SDGsに欠けているもの

「オーセンティシティ」へのアカデミック領域での関心が高まるなかで、これが実践レヴェルではまだ充分に活用しきれていないことは、観光や都市開発領域のSDGs計測指標からも見てとれる。

– 観光におけるSDGs目標
「2030年までに、雇用創出、地方の文化振興-産品販促につながる持続可能な観光業を促進するための施策を立案し実施する」

– 観光におけるSDGs計測指標
「全GDPの及びGDP成長率に占める割合としての観光業の直接GDP」

– 都市開発におけるSDGs目標
「2030年までに、包摂的かつ持続可能な都市化を促進し、全ての国々の参加型、包摂的かつ持続可能な人間居住計画•管理の能力を強化する。」

– 都市開発におけるSDGs計測指標
「人口増加率と土地利用の比率」

土地利用の判定に関してはESRIと協力し、衛星画像の解析に基づいて判断するようだが、これらの変数だけでは「意味のある場所」をつくっていくことは難しそうに思える。ほかの計測指標にも興味がある方はぜひ、「地方創生SDGsローカル指標リスト」を確認してみてほしい。

「観光客の訪問者数」や「GDP」といった短期的な経済指標「だけ」ではなく、長期的な空間価値の計測を行なうことができる、まさに「オーセンティシティ」のような指標が求められていると考えている。

「オーセンティシティ」はスローガン以上の役割を果たさない?

しかし、都市空間に足りていないものを「オーセンティシティ」であると言い当てることは「スローガン」としての役割を果たす一方で、それ以上の問題解決能力をもたないことも、また事実であることを認める必要がある。

社会学者の近森高明は「コールハース、ズーキン、そしてベンヤミン」のなかで、「オーセンティシティ」を都市から「失われたもの」が「仮託される宛先」として表現しているが、明確な定義が施されないことの多い「オーセンティシティ」は「わからないものX」という変数を「わからないものY」という変数で置換したに過ぎず、解を求めるステップは、実は何も進んでいないことに留意する必要がある。

これは自論だが、「オーセンティシティ」の解読(decode)の進みに時間がかかっている原因のひとつに、人文地理学や現象学的地理学といった空間における「人間の体験」を重視する立場と、計量地理学の再現可能なモデルを基に空間を分析する立場の分断があると考えている(単純化しすぎると先人たちにお叱りを受けるかもしれないが、前者を定性・主観に基づくアプローチ、後者を定量・客観に基づくアプローチと捉えるとわかりやすいと思う)。

「場所の現象学」の中でレルフは没場所性のひとつの説明として、ハーヴィ・コックスを引き「人間的意味を剥奪された場所の抽象的な幾何学的見方」と記しているが、ここには現象学的地理学者達の「還元主義」への過剰とも言えるアレルギー反応をみてとることができる。

重要なのは、「オーセンティシティ」の全体像を要素分解的には説明することができないと頭に留めておく、いわば「態度」の問題であり、「手法」の問題ではないことに気がつかなければ、いつまでも話は先に進まない。

また、トゥアンの『トポフィリア』やレルフの『場所の現象学』など代表的な人文地理学・現象学的地理学の文献が、60年代の計量革命に対するアンチテーゼだと捉えると、言わずもがな2021年の今日では、当時より複雑な場所の特徴を情報化できるようになっており、詩的なレトリックのみによってその効能を見捨てることは、もはやできないだろう(最も有名なのは地理学的な水源と人々にとっての泉の意味を対比したハイデガーの言葉だろうか。)

地理学的に確定された河川の『水源』は(人々にとっての)『地に湧く泉』ではない。

筆者の態度としては、現代に活用可能な空間解析技術を使うことで、「オーセンティシティ」の(完璧ではないにしても)意味のあるレヴェルでの指標化が可能なのではないかというものである。ここからは、先人達の議論の系譜を基に、その定量化・指標化の可能性を示していく。

オーセンティシティ、その3分類

マスツーリズムの台頭に伴う場所の「商品化」への指摘から始まり、50年以上もの議論の系譜から非常に多様な定義を与えられてきた「オーセンティシティ」であるが、それらは、大きく「客観性」「実存性」「構築性」の3つの見方に分類して考えるというのが分野内でのスタンダードになっている。今回はこのフレームワークに則りながら、それぞれの定量分析方法を提案してみようと思う。

まず、「客観性オーセンティシティ」から考える。これは文字通り、世の中には真性(本物)である場所が「客観的に」存在していると捉える立場である。

「客観性オーセンティシティ」の立場として特徴的なのは、場所の本質性の判断を専門家や科学的測量に見出すことが挙げられる。例えば、歴史的建造物などの有形文化財や、伝統芸能等、それに付随するヘリテージツーリズムなどが挙げられる。

また、この本質主義(essentialism)なオーセンティシティの捉え方をした代表者、ディーン・マキャネルは著書『ザ・ツーリスト』のなかで、ツーリストは、自分が今日生活している社会とは異なる、人の手が介在していない自然や前近代的で「無垢」な場所に、場所の「オーセンティシティ」を見出すと述べている。

自分の生活している社会には存在しない場所という観点から考えると「客観性オーセンティシティ」の計測指標のひとつとして、エリア内に存在する店舗のチェーン率を活用できると考える。

これは、(客観的に本質的な場所が存在すると考えていた)レルフがニュー・サウス・ウェールズ大学の講義で「場所性は固有性(distinctiveness)と同義である」と述べていることとも対応する(逆に没場所性は均質性(sameness)と同義であるとも述べている)が、より直感的には、わたしたちの観光体験からも感じられるだろう(いまとは違う場所を求めて訪れた旅先で、いつものハンバーガ屋を見つけると少しガッカリしてしまうあの感じだ)。

マクドナルドは(地元住民に)案外受け入れられている?

Foursquareが企業向けの場所データ提供APIサーヴィスへと変化を遂げたことが話題になったが、エリア内の店舗チェーン率は彼らのAPIを使えば比較的容易に算出できる。FoursquareのPOI(Point of Interest)データの中に、その場所が「チェーン」かどうかを示すパラメーター(これは大変便利である)があり、それらの店舗を集計し、調査対象エリア内の全店舗数で割れば良い。

ここで難しいのは、観光客にとってはエリアの固有性を破壊し「オーセンティック」な体験価値を減少させる「諸悪の根源」であるチェーン店が、必ずしもローカルの住民にとっても、悪いものと捉えらていないことが往々にしてあることだ。

これに関しては、印象的なエピソードがあるので、それを共有させてほしい。一般的に「観光」というほどの遠出ではないが、約2年前、普段とは異なる場所に行こうと(つまり何らかの「オーセンティシティ」を感じようと)、特に目的ももたず東京の北区「浮間舟渡駅」の高架下にある居酒屋を訪れた。親しみ易い夫婦が営む店舗で、一見さんのぼくにも気さくに話しかけてくれた。

酩酊しながらぼくが「雰囲気があって素敵な街ですね。駅前のマクドナルドはなくてもいいのに(笑)」と冗談混じりに言うと、店主はピンときていないどころか、チェーン店は便利だし若者が集まって賑わうのでドンドン進出してもらって構わないとのことだった(何をするにも埼京線で2駅隣の赤羽駅に行かなければならないのが不満らしい)。

やれ「マクドナライゼーション」だ。やれ「スターバッキンゼーション」だと騒いでいるのは、観光客(外部者)や机上でものを考えがちな都市研究者(メタで捉えるだけで、そこにいない)だけで、「ローカル」の住民は案外ウェルカムなのかもしれない(もちろん商店街などにとってのイオンやドンキホーテなど、客を直接取り合うとなると、また話は違うだろう)。

地元住民との交流が「オーセンティシティ」を生み出す

絶対的な真正性が「既に」宿っている場所があるとみる「客観性オーセンティシティ」に対して、「実存性オーセンティシティ」の立場では、その場所における「個人の体験」にその説明を求める。つまり、‪場所がもつ性質が真正であるかどうかを論じるのではなく、その場所において、個人が自身の内部で真正性を感じるかどうかが論点となってくる。

「実存性オーセンティシティ」では、ツーリストがその場所での体験を「オーセンチック」だと感じる一つの要因に、ローカルとのインタラクションを挙げているが、これはわたしたちの実際の経験からも同意できるだろう。旅先で訪れたレストランが、文化遺産ではないどころか、そこがマクドナルドであっても、地元の方と話せると、たちまち意義深い体験をしている気がしてしまうものだ。

これは、「Airbnb」を初め、ソフトバンクが躍起になって投資している「TourByLocals」や「Klook」といった「ローカル」体験を販売するサーヴィスの盛り上がりからも見て取れる(コロナ禍前の話だが、このトレンドはさらに加速するだろう)。そもそもガイドを介さないことが真の現地体験につながるのだという、スーパーサヴィな熟練旅行者からの批判はあるとして、多くの人々がこれらのサーヴィスに価値を感じていることは否めない。

地元住民と旅行者が訪れる場所の近さが重要?

この観点から考えると、「実存性オーセンティシティ」の計測指標としては、ローカルとツーリストの行動エリアの重複度を活用できるはずだ。つまり、ローカルが遊ぶ場所とツーリストが遊ぶ場所がブレンドしている状態において、ツーリストは「真正な体験」をしていると感じやすいと仮定する。

ローカルは訪れずツーリストだけが躍起になって訪問する場所を「ツーリスト・トラップ」と呼んだりするが、それらに陥らないことは個人の体験からみても意義のある旅をするための鍵を担っていると感じる(ツーリストのため「だけ」の施設・体験を作るべきでないことは、「観光の終焉」などからも読み取れる)

それぞれの行動エリアの重複度はどのように計測するのか。各グループにGPS端末を持ち歩いてもらってデータを取得するにはコストがかかりすぎるだろう。そこで、数名の友人に相談したところ、ある知人が「Locals and Tourists」というリファレンスを教えてくれた。そこではFlickerの写真データを用いて、撮影者がローカルかツーリストか見分ける方法が提示されている。

これは一ヶ月以上にわたって同じ都市で写真を撮影している人は「ローカル」で、その人が訪れた場所は「ローカル」住民が訪れる場所と判定する。一方で、一ヶ月以内の期間で都市の中で写真を撮影した人は「ツーリスト」として、その人が訪れた場所は「ツーリスト」が訪れる場所と判定する。ローカルとツーリストの活動範囲の重複度はここから計算できる。

2010年に提案された方法だが、写真を投稿する人口が(言うまでもなく)かなり増えたことから、いまであればさらにリッチに分析できるだろう。これは、具体ベースで考えてみてもイメージが湧きやすいかもしれない。例えば、住宅地にある居酒屋などではローカルとツーリストの「ブレンド」が起こっているが、ロボットレストランはツーリストの比重が多い場所となるだろう。

赤いバスを観て感じる「ロンドンらしさ」

「実存性オーセンティシティ」の提唱者のニン・ワンは、旅先における真正性は、個人内の主観だけでなく、間主観的(二者間以上で同意の取れる主観性)にも感じられると論じている。ニン・ワンは、間主観的に感じられる真正性の例として家族や親戚との旅行に加え、聖地巡礼などの際に形成される、既存の社会階級が取り払われた「観光コミュニタス」を挙げている。

また、ワンは第三のタイプの「構築性オーセンティシティ」の提唱者でもある。この立場では、場所の真正性とは、絶対的なものでもなく、かといって個人の主観・間主観だけによるものでもない、それは社会的・政治的によって構築されたものであるという捉え方をする。

直感的な「オーセンティシティ」の概念とは、対立するように思う方も多いかもしれないが(わたしも最初にこの概念を知ったときはそうだった)、はじめて訪れる国で感じる真正性の大部分は「構築性オーセンティシティ」により、生じていると言えるだろう。

例えば、ロンドンのツーリストが赤いバスを一目見てイギリスに着いたことを感じるのは、観光メディア(社会的)で何度もそれが演出されてきたからであるし、シェアサイクル及びバイクレーンのカラーはスポンサーの銀行(政治的)によって移り変わるものである(サンタンデールでは赤に、バークレイズでは青になる)。

RICHARD NEWSTEAD/GETTY IMAGES

The Invention of Tradition」では、スコットランドのキルトやイギリスの王室の儀礼などが例に挙げられているが、わたしたちが古来より続いている伝統と感じているものの多くは、実は近代以降に発明されていたりするものだ。

そして、文脈至上主義の旅行者は嫌うかもしれないが、多くのツーリストは、それを「演じられたもの」と知りながら楽しんでいる。ジョン・アーリは彼らを「ハイカルチャーの束縛から解放されたポスト・ツーリスト」と呼んでいるが、ここには軽蔑の意はないことに留意する必要がある(真偽の程は定かではないが)。

「日本らしさ」と、演じられたもの

難しいのが、どのように「演じられたもの」であれば都市のオーセンティシティにポジティブに寄与するかということだ。今年の1月、Metacityというリサーチプロジェクトの一環で筆者が展開する音楽から場所を探せる「Placy」を用いて「自分の訪れたことのある場所に音楽を紐づけてもらう」というワークショップを行なった際のことだ。

1人の参加者が京都の木屋町通りに椎名林檎の楽曲を紐づけてくれた。その場所と音楽の関連性に大いに共感しながらも、その解釈の言語化が進まず、まごついているわたしを助けようと、ゲストスピーカーとして参加して頂いていた『Mixmag Japan』編集長の川崎さんが次のように打ち返してくれた。「確かに、椎名林檎さんも京都も、『日本らしい』部分がギュッと凝縮された感じがありますよね」

この解釈は、ワークショップでの助け舟としての役割はもちろん、わたしに「構築性オーセンティシティ」について、より潜って考えるキッカケを与えてくれた。京都と椎名林檎が「日本らしさ」の凝縮であると感じるのは、両者が多かれ少なかれ、わたしたちの想う日本を「演じている」部分があるからであろう。

世界でも最も好きな都市のうちの一つである京都と、中学生のときに貪るように聞いた椎名林檎(少し照れる)の演じる日本が肯定的な意味で「オーセンティック」に感じられるのに対して、新宿のロボットレストランが演じる日本がそう感じられないのは、個人の好みの問題だけではないだろう(現地の人も認める演じ方が求められるのだろうか)。

悔しながら、ここの違いがまだ明確に見えておらず、「構築性オーセンティシティ」の計測指標に関しては、あまり具体的なものが思い浮かんでいないのが正直なところだ。もしアイデアのある読者の方がいたら、ぜひ一緒に考えたい。

結局、オーセンティシティを指標化できるのか?

先人の文献を元に3つの「オーセンティシティ」の分類と、その計測方法について考えたが、これらは、それぞれに優劣があるのではなく相互補完的に作用すると見たほうが良い。これらの3つの分類は、思考のフレームワークとして重宝するが、絶対的なものではなく、必要があればより細分化して考える必要もあるだろう。

また、実際に「オーセンティシティ」指標を打ち出す際には、ただ現状を評価するためのものとしてだけでなく、そのインプリケーション、つまり、その指標に沿って都市をつくっていったときにどのような風景が浮かび上がるのか、つねに頭に留めておく必要があるだろう。

特に「オーセンティシティに寄与する場所の特徴」を見つけ出し(定義し)、それを指標として採択する際には細心の注意を払わなければならない。一同前倣えで、その指標に基づいて場所をつくった際に、それが均質化を招き、逆にエリアの真正性が損なわれる可能性もあるからだ。

例えば、提灯の数が「オーセンティシティ」を構成する要素であると指標化された場合を考えてほしい。(全国各地のエリアマネジメント団体が「オーセンティシティスコア」の向上を目指して一斉に提灯を掲げ「オーセンティシティー証明書」の獲得を狙う……などということが頭に浮かばなくもない。

あえて強調すると、場所を評価し証明書を発行することが目的ではなく、その土地にある真正性の価値を伝え、それが十分に守られ発揮される仕組みの構築が、指標作成の目的である。ここに留意しないと、本質的ではない「証明書スタンプラリー」システムの構築に寄与してしまうことになるので、十分気をつけねばならないと感じている。

もしかすると「オーセンチックな状態」を算出し指標化するのではなく、定量化の対象とするのはチェーン店の比率の例のように「オーセンチックではない状態」にとどめるのが良いという結論に至る可能性もあるだろう。してはいけないことだけを定める「バウンサー」的な「守りの指標」という役割に留め、「オーセンチックな状態」を産み出す「攻めの指標」の定義は十人十色、各エリアに任せてしまうわけだ。

さまざまな方面から議論され、賛否両論のある「オーセンティシティ」。既存の「スローガン」としての役割を更新し、具体的なアクションを誘発するコンセプトへとつなげることに貢献できれば幸いだ。


都市音楽家によるプレイリスト、テーマは「AuthenticTokyo」
連載各回のテーマに合わせ、都市音楽家の田中堅大がプレイリストを制作。第4回のテーマは「AuthenticTokyo」。「Authentic(本物らしい)東京(の音楽)を考えて作成したプレイリスト。米国や欧州を訪れていたときに、何気なく行ったバーで知り合った音楽好きたちとの会話を思い出しながら、その会話で出てきた東京のアーティストや楽曲を中心に構成しています。『東京らしい音楽』なんて正解はないけれど、プレイリストを通して聴いたときに、これらの音楽から『東京らしいなにか』が滲み出ているか、よく観察してほしいです」と、田中はその意図を語る。


TEXT BY SOMA SUZUKI

ILLUSTRATION BY NAO TATSUMI